バブル崩壊後13年もの時が経過している現在においてもいまだに日本の金融経済が回復しないのはいったいどういうことなのだろう? 著者はこれまでに『検証 経済失策』、『検証 経済迷走』の2冊の書物を通じて、1996年から98年までの日本の経済政策の展開を検証し、官僚主導の経済失策や、その後の官僚機構の失権が政策選択の迷走を招いたとの結論を導いた。そしてさらに本書では、金融危機前夜の1992年から95年の時期に遡り政策選択の真実を探ることとなる。
検証は1992年の寺村大蔵省銀行局長の就任から始まる。寺村に与えられた銀行行政の課題はバブル終戦処理、金融自由化の仕上げであった。そこへ兵庫銀行、住専危機の問題が浮上した。加えて釜石信金、さらに東京協和信組、安全信組の危機と一気に、金融危機の序章が始まる。この時期寺村は問題解決のために日銀および政府との折衝にあたるが、具体的解決にはならず、次の西村銀行局長にバトンを渡す。西村は難題を引き継ぎ、問題解決のため奔走するが、一連の選択決定の前にコスモ信組の取り付け騒ぎを契機に木津信組、兵庫銀行、住専の処理が当局の予定に反して進んでいく。
本書の検証で明らかなのは著者が主張するように、多くの当事者が自らの選択が「先送り」だったという認識を持っていないことである。自らは最善を尽くしその時点においては問題を解決したと自負しているのである。
読んでいて恐ろしくなるほど現場の臨場感があるが、それもそのはずで、著者の検証取材と当局内部の極秘文書、登場する人物の日記、手帳、メモに至る裏付け文書がベースとなって構成されているのである。――2003年8月(桜田清二)
前2作、特に「経済迷走」の読後感にも通じるが、国策決定が選挙対策などの政治家の都合で左右される現状にため息をついてしまう。国家レベルだけでなく、都道府県、市町村のレベルでもそれぞれ同様の(あるいはより醜悪な)私的紛争による行政停滞が起こっていると思うと暗澹たる気分にさせられる。
現在の金融行政は、新しい法律を作ったことで、状況が変化している。
しかし、政府の政策決定過程を見ても、
不透明で責任の所在はわかりにくく、状況は変わっていない。
金融行政に限らず、過去の政策決定過程の検証は、
本来、国会の中で綿密に検討されてしかるべきだと思う。
例えば、阪神淡路大震災における危機管理体制の不備は、
村山首相以下当時の関係者が、
地震発生直後からどのような行動をとっていたのか、
詳細に検討する必要があったと思う。
野党の力不足、認識不足からか、
こうした検証に力が注がれてこなかったことは、非常に残念だ。
本書には、金融問題について真正面から取り組んでいた官僚の一人として、
西村銀行局長が登場する。
彼の敗北は、大蔵省の中でも傍流官僚の悲哀を感じさせた。
西村局長のほかにも、日銀や宮沢首相らは、
当時としては問題意識を強く持っていたけれども、
政策として反映させることに失敗し、あるいは断念している。
その後の回想からは、金融問題がここまで大きな影響を与えるとは、
予測していなかったことが伝わってくる。
この本は、緻密に事実を書き上げつつも、
大きな決断をしようとして成し得なかった人間の姿を描いている。
事実を細かく伝えることで、人間の姿が浮かび上がってくる。
だからこそ、メディアが伝える人間ドラマは、読まれるのだろうと思った。
大嶽秀夫氏は、かつて
「ジャーナリズムと政治過程論は、綿密な関係にある」
と書いたことがある。
本書は、その発言を裏付ける作品といえる。
学生には、政治過程論の参考書としても役立つ1冊だ。
本書の読み所は3つ。まず、住専問題への財政資金投入決断の真実、そして、兵銀最後の頭取となった元大蔵省銀行局長吉田正輝氏の悲劇を、読者ははじめて知ることになろう。第2に、大蔵省・日銀の英才が陥った、「跳ぶことが許されない」故の先送りの罠の実態。現実の延長線上で必至に考える大蔵省、空想力に勝るが跳ぶ実行力のない日銀の姿が、冷徹に描かれる。「再び92年にタイムスリップしたとしても、やはり同じことをしていた」という寺村元銀行局長の言葉は、真面目な日本人官僚の姿を悲しく物語る。最後がプロローグ、エピローグの見事さ。プロローグには福井日銀総裁誕生の裏話が埋め込まれ、エピローグは政治家の悲哀を感じさせる。
筆者による三部作は、金融問題を主に取扱っている。しかし、98年に破綻処理・資本注入法制が整備された後、金融にはドラマは乏しい。今後、より政治に軸を移し、イラク・北朝鮮問題にも足をのばし、政策決定過程の再現に挑むことを期待したい(HH)。