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人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

価格: ¥420
カテゴリ: 文庫
ブランド: 新潮社
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生と死、自由と宿命の狭間にある人間という存在 ★★★★★
昭和期を代表する文芸評論家の一人である氏の、評論の代表作といえる作品である。
氏にはシェイクスピアの翻訳を中心とした演劇関係の業績も多いが、本著は「演ずる」ことをテーマに、
文芸・演劇評論から文明論へとその視野を一気に飛躍させた論陣を展開している。
そこには、自由と平等、人権といった近代的諸価値、あるいはヒューマニズムとは全く異なる立場からの、
「演劇」=「擬制」としての人間社会、なかんずく人間存在への理解が貫徹されており、
戦後社会を支配した諸価値に対する強烈な懐疑と抵抗が敢然と示されている。
この様なささやかな文庫には収まりきらない叡智の塊が垣間見える一作であり、
是非ともこれを機に、氏の言論に一つでも多く触れてほしいものである。
唯一残念なのは、現代語表記になっていること。
戦後改革、特に国語「改革」を徹底的に批判した氏の文章は、やはり正字正仮名で書かれてこそ、
故人の真意に適うと思うのだが、如何だろうか。
第一級の文明批評 ★★★★★
 青春に苦悩する若者向けの本のように語られることもある本書だが、内容は演劇論・私小説論・西欧個人主義批判・マルクス主義批判など、様々な要素が「演劇的」「全體と個」というキーワードで混然と語られたもので、ある程度の教養と思索の経験がないとスラスラ理解するというのは難しいと思う。一方、それだけの広範なテーマをこの小冊子のボリュームに結晶させてみせた思想の切れ味は鋭く、また個々の話の内容は今でもアクチュアリティを持っている。これは「文明批評」という死に絶えてしまったジャンルに属する文章だが、浅田彰や柄谷行人、またそれに影響を受けた世代の「批評」とは全く異なるスタイルのものだ。ヴァレリーとか、ああいう人の方が近いと思う。

 さて、保守思想家として一般的に認知されていた著者だが、90年代半ばに全集を読み返していた柄谷行人が久野収に尋ねたところ、福田恆存は戦中には保守的自由主義者ではなく、どちらかというとニューディール系左派のような立場だったという。この本を読んでもよく分かるが、紋切型的な「保守」「自由」にも、その反対の左翼的な言説にもまったく組みしない、「主義」から離れた「批評」の立場に彼がポジショニングし続けていたことは、福田が「平衡感覚」という言葉を残していることとあわせて、今こそ想起されるべきだろう。

 なお、「全體と個」「生死」を巡る議論では、僕は若干読んでいて「違う」と思うところがあった。「死」を前にしたときに形式=演技を通じた「全體」と人は一体化し、日常を忘れることができる。「死」こそ「生」を意味付ける。著者はこういうが、確かにそれは日常的な我々の生活そのものである。でも、それが肉親のものであれ他人のものであれ、「死」を前に全體の演劇を演じて安堵するのは常に生者の側である。死者の死は、死んだ時点で死者のものではなく残された者のものになってしまうのだが、その非対称な関係を「生は演劇的なものだから」と著者のように全肯定する気には僕は今ひとつなれないのだ。そして、福田恆存をトンチキな保守派イデオローグとして読む人間が喜びながら嵌る陥穽がこういうところにあると思う。福田のいう「全體」は「全体主義」の「全体」とは違うが、(そもそも福田恆存を読んだことのないような人間に圧倒的に多いと思うが)この二つの概念を取り違えるバカがなぜ存在するのかという理由も、多分この辺りにある気がするのだ。そういう危険も内包された一冊ではあるが、これから多分僕は何度かこの本を読み返すと思う。それくらい、思考のヒントが詰まった本です。他の文章も読んでみたい。
すぐに「わからない」ことの大切さ ★★★★★
私たちは本を読もうとするとき、必ずいくらかはその「結論」を知っている。
本屋で何千冊という本からその一冊を手に取ったとき、
そこには「自分がその本を選択した理由」が必ず含まれているからだ。
  昨今のレビューの発達と、「教養主義的な」読書ブームによって、その結論を知ることはますます容易になった。
適当な月刊総合誌を開けば、「読むべき本」から「どのような内容」を読み取れば「教養になるのか」が簡潔にまとめられている。
 本書も、そのような「教養的読書のススメ」の一冊にたびたびまぎれている。
それらは、次のような抜書きとともに紹介されることが多い。

 「自然のままに生きろという。だが、これほど誤解された言葉もない程度の差こそあれ、
誰もが、なにかの役割を演じたがっている。
また演じてもいる。ただ、それを意識していないだけだ。」(P15)
 「舞台をつくるためには、私たちは多少とも自己を偽らなくてはいけないのである。
堪え難いことだ、と青年は言う。自己の自然のままにふるまい、個性を伸張せしめること、それが大事だという。
が、かれらはめいめいの個性を自然のままに生かしているのだろうかかれらはたんに
『青春の個性』というありきたりの役割を演じているのではないだろうか。
私にはそれだけのこととしかおもえない。」(P16)

 これらを読んで「自分さがし」や「自己実現」を求める今時の若者を批判することは簡単だ。
しかしながら、著者はこのような「データベース的」に「主張」が「活用」されることを望んではいないだろう。
そして瞬間また「反個性」という役割を反復しているに堕してしまうからだ。

「今日、私たちは、あまりにも全体を鳥瞰しすぎる。
いや、全体が見えるという錯覚に甘えすぎている。
全体が見通せた瞬間、全体という観念が消滅する。知識も知恵消失する。
そこには、すべてを知るものの無智があるだけだ。」(P36)
 
 著者は、随所で私たちが主張に共感したくなるたびに冷水を浴びせる。
本書は役に立って、データベース化できる、そんな今日的知識は提供してくれない。
 本書の内容は、人生の中にある実感を通して獲得するしかない。
「絶対的なものに迫って、自我の枠を見出」そうとすることでしかそれはなしえない。

 大学入学時、いわゆる「教養主義的」この本を読んだ私は、そのことが分かっていなかった。
「もっとわかりやすく・具体的」な記述を、受験現代文に取り組むがごとく読解していた私には、
本書をほどんど理解できなかった。その後、数年間に堆積されたわずかばかりの「実感」によって、
例えば冒頭の「青春の個性への執着」のようなことが、納得できるようになってきた。

 この本は薄く2時間もあれば、読み終える。
だが、いつもこの本を携え、人生の中で少しずつ実感していくことで、
初めてこの本を読み終えたといえるのではないだろうか。
 そういう風な非効率な読書がこの本にはふさわしい。
戦慄する深さの素晴しい批判精神! ★★★★★
本書のベストセリフ
「すでに酔おうとして劇場にやってくる観客は、いいかえれば、
一つの行動に参与しようとしてやってきたかれらは、
主人公の無知にたいしては、はなはだ寛大である。
かれらの心理は、最初から眼を閉じようとしている。
同時に、かれらは、日常生活における知識の集積から、
それをいくら重ねても全体感に達しえぬ疲労から、
すなわち無意味な現実から、
逃避しようとして劇場に足を運んでくるのだ。
かれらは、劇場から、このうえ、
なんらかの不完全な知識を持ちかえろうと欲してはいない。
かれらのほしいのは生の全体感であり、
そのためには、かれらは喜んで無知の切り棄てに身をまかせるのだ。
判断の停止や批判の中絶を必要とするのだ」
演劇が何故知的レベルが低いかを見事に解析した究極の演劇論の書!
芸術論、人間論もやっている素晴しい人生の教科書でもある。
無知で判断力の無い批判精神の欠如した、
全体の雰囲気に酔いたい馬鹿が演劇を見たがるのだ。
生のライブ感が大事って、
演劇って生出しOKの3Pプレイの風俗産業に近いよなw
あっ、覗き部屋みたいなもんかww
演劇の知的レベルの低さが本書によって見事に理解出来て良かったですぅ!
知的なおっさんは、顔が良いだけの俳優が動き回るだけの演劇なんて、
馬鹿馬鹿しくて見てられないよなw
「懐疑」と「保守主義」 ★★★★★
この本に描かれているのは徹底した懐疑です。戦後民主主義の日本で素朴に信じられている理想。自由、平等、博愛や個性、人道主義に対する懐疑。それが本当に称賛に値し、人を幸福にするのかという疑問です。

この本を読めば懐疑こそ保守主義に至る道なのだということがよく分かると思います。