「自灯明、法灯明」の真相
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本書は、1989年刊行の『釈尊の生涯と思想』の新装改題版である。入手して初めて知った。脚注がほとんど省略されているが、細かな文章構成と仮名の漢字化が施されて、読みやすくなっている。内容は一緒である。以下は、旧著のレビュー再掲である。
“釈尊は今までの禅定や苦行の努力が誤っていたことを知り、菩提樹下において禅定思惟を始められた。それは、四禅定、四無色定、滅尽定の九次第定という悟りの禅定であった。これによって、初夜には宿命明(過去に関する智慧)、中夜には天眼明(未来に関する智慧)、後夜には漏尽明を得て、仏陀となられた。”という本書の記述は、極めて重要である。
なぜか? 「四無色定」は無所有処定と非想非非想処定を含むので、最高の「止」の瞑想である。しかし、これらの瞑想では不十分とした釈尊は「滅尽定」を独創して「止」の瞑想の上に置いたのである。しかもそれは、「滅尽定⇒宿命明+天眼明⇒漏尽明」という「観」の瞑想なのである。「止」の後に「観」を行うのが、非凡な独創なのである。つまり、「宿命明(過去に関する智慧)=苦聖諦+苦集聖諦」であり、「天眼明(未来に関する智慧)=苦滅聖諦+苦滅道聖諦」が統合されて、「滅尽定≡漏尽明≡苦聖諦+苦集聖諦+苦滅聖諦+苦滅道聖諦」という驚くべき結果に導かれたのである。
ブッダ釈尊の九次第上によれば、「止」の瞑想は物質的な束縛からも精神的な束縛からも自由になるための瞑想であり、「観」の瞑想すなわち「四聖諦」の瞑想は「止」の瞑想が究極に至らない限り起動しないように思われる。しかし、悟りの光を獲得したブッダ釈尊は、後に「アーナパーナサティ経」によって、凡夫が取り組みやすい「止観」の瞑想を残してくれた。これが、「自灯明、法灯明」の真相である。