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悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

価格: ¥690
カテゴリ: 新書
ブランド: PHP研究所
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生きていきにくい理由を身体から説き明かしてくれる救済の書に読めた。 ★★★★★
 とりわけ自分の身体となんらかの葛藤状態にある場合、この本は快復への手掛かりになるのではないかと感じた。
 現代では食べ物は勿論、高度医療システムの発達で、人間の死や身体の一部分までモノ化されていることを、ひとはいつのまにか受容しつつも、「自由な個人の前提たる所有への欲望」だけはを肥大化させ、その対象には自分の身体も含まれる。
 そこで人は、ある種の理想に向けて身体を解釈・分析し、ピアッシングや過食・拒食、危険な性行為、そして究極的には自殺という形で攻撃しているのだ、と本書は述べている。
 解決策としては、身体に「ゆるみ」「すきま」、つまり「あそび」を取り戻すことが提案されているが、コンピュータに君臨されている現代では、困難に思われる。とはいえ、現代人は悲鳴をあげるほど自分の身体を攻撃しているのだ、と気づくことには深い意味がある。
 つどつど不満や絶望を慰撫してくれる言葉に出会った。これがロングセラーの理由だろうか。
改めて身体の存在を感じてみる ★★★★☆
鷲田さんの本は、「聴くことの力」以来、かなり好きで読んでいます。この本はもう10年前のものですが、今読んでも新鮮で、またここに書いてある「身体」の問題は今でも問題であり続けていると思われました。

「自然」の壊れた人間が、それでも他人との関係の中で保ってきた「自然」の燃えかすのような「段取り」でさえ、今は消去したがっているようにみえる、と筆者は述べます。

>わたしもふくめて、少なからぬ人たちが、じぶんの「自然」を傷つけることなしには
>じぶんの存在を確認しにくくなっている
>身体が過剰に観念に憑かれてしまい、観念でがちがちに硬直している
>こういう状態にある現在の身体を、わたしは<<パニック・ボディ>>と名づけてみたい

この本を読んで感じたのは、身体というのは、こうして考えている自分なるものとは少し違うものかもしれない、ということです。身体は身体の独自性で、自然をたっぷり残した生存の知恵を持っているもの、「自分」と「身体」は違うかもしれない、筆者もこう述べます。

>身体というものは、もともとはひとがそれに身をまかせ、ぷかぷか漂っていられる
>船のようなものであったはずだ、
>だから身体が故障したとき、わたしたちはまるで日ごろのお返しをするかのように
>ていねいに手当てをすることもできたのだ
>だが、その身体がそういう奥行きを失って、観念にあまりにも密着し、
>身体に固有の判断力や想像力を失いだしているような気がする

そして、わたしたちの現実が、ある偶然のなかで編み上げられたものでしかありえず、フィクションであるということや、「ゆるみ」「あそび」そしてケアにみられる「どっちつかず」の重要性について述べられます。

最後に筆者は、身体とは緩衝材であり、「じぶん」と「身体」との距離は日々変わりうること、そしてその距離が近接しすぎることや弛緩しすぎることの危険性を述べています。

ある程度年齢を重ねると、身体というのは自己管理すべきものであり、自分そのものであるような錯覚を覚えます。そして、同時に、自分の意のままにはならない身体という独自の存在にも気づきます。この距離のあり方は難しいのですが、いまいちど謙虚に身体の呼び声に耳を澄ませて、よりよい生活を過ごしてゆきたいと感じました。

この本で言われているメッセージは、表現を変えていろんな方が言っていることではありますが、独自の清涼感ある文体、表現力、説得力は鷲田さんがいちばんだな、と思いました。
主張はわかるが何の役に立つのか? ★★★☆☆
哲学・倫理学の教授が書く外部的な身体と内部の乖離の問題について述べた本。

表紙の見開きに書かれている紹介文にあるとおり、本来身体に良いと
されていない行為が本人によってされている現状を1章・2章を用いて
述べています.そのうえで通常の行為に「身体」が関係している(のではないか)
との内容を3章で示しています。身体の本質を見極めるためものとしての
特性を述べた4章で述べ、5章と6章で本質をその本質をとりもどすための
提言がなされています。

たしかに医学的な身体と、外見上の身体、そして自分自身の活動を
してゆくための身体が乖離しているのは理解できます。が
本当に述べられている問題点がこの乖離から生ずるものなのか
乖離したままでの解決法は無いのかについては読み取れませんでした。

哲学的に考える事は大切だと思いますが、感受性の低い私にとっては
それ以上でもそれ以下でもなかったです。
もうひとつ突っ込んで欲しい ★★★★☆
近代的自我に基づく所有観念が、所謂消費する主体としての身体を生み出し、近代人は自然や他者との関係を喪失し阻害されているという著者の議論はそれ自体目新しいものではない。このような時代の到来はマックス・ウェーバーやハイデッガー、さらにはニーチェなどが100年もの昔に予想したことであった。わが国でも、丸山圭三郎や吉本隆明が各々「言わけ構造」や「指示表出」言った言葉で同様の概念を述べているし、最近ではその議論の立て方に若干の問題はあるものの養老孟司が「バカの壁」などで似たような議論を展開している。今後、我々に残された道は、国家や制度、もしくは市場に管理された身体ではなく、他者との関係の中に成り立つ間身体性をいかに回復するかである、と著者は説く。

 著者の言うことはいちいちもっともであるが、今後共同体が益々弛緩し、家族が益々崩壊の一途をたどるなか、反動的な道徳的身体論への回帰だけは何としても避けねばならない。その意味で、著者の主張する「ゆるみ」「すきま」「遊び」などの復権はひとつの方向性を示してはいるものの、全体として「失われたもの」への回帰を志向する趣が強く、現状を踏まえた未来への積極的提言というところまでにはいたっていない。