近代的自我に基づく所有観念が、所謂消費する主体としての身体を生み出し、近代人は自然や他者との関係を喪失し阻害されているという著者の議論はそれ自体目新しいものではない。このような時代の到来はマックス・ウェーバーやハイデッガー、さらにはニーチェなどが100年もの昔に予想したことであった。わが国でも、丸山圭三郎や吉本隆明が各々「言わけ構造」や「指示表出」言った言葉で同様の概念を述べているし、最近ではその議論の立て方に若干の問題はあるものの養老孟司が「バカの壁」などで似たような議論を展開している。今後、我々に残された道は、国家や制度、もしくは市場に管理された身体ではなく、他者との関係の中に成り立つ間身体性をいかに回復するかである、と著者は説く。
著者の言うことはいちいちもっともであるが、今後共同体が益々弛緩し、家族が益々崩壊の一途をたどるなか、反動的な道徳的身体論への回帰だけは何としても避けねばならない。その意味で、著者の主張する「ゆるみ」「すきま」「遊び」などの復権はひとつの方向性を示してはいるものの、全体として「失われたもの」への回帰を志向する趣が強く、現状を踏まえた未来への積極的提言というところまでにはいたっていない。