「永遠平和」は信ずるに足る漸近形である
★★★★☆
カントは多くの人が思っているのとは裏腹に控えめな主張しかしていない。
タイトルとか「常備軍全廃」とかの記述に引きずられているのかもしれないが、あえて言えばカントは「永遠平和は実現する」とは言っていない。
カントが本文と第一補説の最後にそれぞれ何と書いているか見てみよう。
「(前略)ひとびとはこうした条件の下においてのみ、永遠平和にむけてたえず前進しつつあると誇ることが出来るのである」(p53)
「なるほどこの保証は、永遠平和の到来を(理論的に)予言するのに十分な確実さはもたないけれども、しかし実践的見地では十分な確実さをもち、この(たんに空想的でない)目的にむかって努力することをわれわれに義務づけるのである」(p71)
カントの想定する「永遠平和」はあくまでも「漸近形=次第に近づいていくもの」として捉えられており、それが完全な形で実現するものだという、それこそ空想的な平和主義を彼はとっているのではない。
カントが恐れているのは、「そもそも平和など意味がない」とか「政治は力の争いであり、平和であるか否かは重要でない」、「平和は体のいいイデオロギーの道具である」のような形で、平和という「理念」そのものへの懐疑である。
これに対してカントは、永遠平和に「向かって進み続ける」ことが十分に現実的で意味のあることである、ということを本書で力説しているのである。
ゆえに、本書において永遠平和は「信ずるに足る理念」であって、「実現するもの」と捉えるのはあまり妥当ではないように思われる。ただ最近の平和論でのカントの引かれようはどうもこの誤解の方に基づいている気がするが・・・
カントの政治理論の入門書
★★★★☆
カントの平和論を簡潔にまとめたもの。永遠平和のための予備条項、確定条項と、それを補う第一補説、第二補説からなっている。
カントは、1)誰が国家権力を掌握するか、2)立法者と執行者は分離しているか、の2点によって国家体制を峻別している。
立法権を握る主体に応じて、国家の制度は君主制、貴族性(代表制)、民衆制に分けられる。
立法者と執行者が同一のものは専制であり、分離されているものは共和制である(私たちが通常理解しているDemocracyは、カントのいうところの共和政に他ならない)。
立法権を国民全体が等しく握る民衆性においては、共和制は論理的に達成不可能であり、君主制・代表制においてのみ、共和制が成立する可能性があるとカントは考えた。 共和制においてのみ、社会の成員は自由たりえるのであり、万人が同じ法に平等に従うということが可能であるが、これらの共和制によって達成される状態は永遠平和のための要件であるとカントは説く。
カントはまた、永遠平和を保証するものとして、自然をあげている。自然はその見えざる偉大な力で人をある時は戦争に駆り立ててきたが、いつかはまたその力で人間を永遠平和に導くとカントは考ようだ。(人間の認識は経験に基づかねばならない一方で、自然の営みは人間の経験の範囲を超えている。だからといってその営みを否定することはできない、というのがカントの認識論)
叙述の随所にカントの思想のエッセンスが反映されており、カントの政治理論の入門書としても有用だと思う。
偉大な哲人カントの平和論。厳粛に傾聴すべし。
★★★★★
200年以上前に書かれたこの本は、晩年のカントが永遠平和を希求して著したもので、二つの章と二つの補説および付録二項からなっている。第一章は、人類がこのまま行けば戦争により滅亡するであろうことを防ぐための条件が書かれていて、六つの条項から成っている。特に有名なのは、「常備軍は、時とともに全廃されなければならない」という条項である。第二章は、永遠平和のための三つの施策が書かれている。その施策とは、国家は共和制でなければならないこと、国際関係は自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきこと、世界市民法は普遍的な友好の諸条件で規定されるべきこと(征服ではなく、友好的な訪問の権利が認められ、それが次第に世界市民体制へと近づける、という考えに基づいている)、である。
補説では、それらの根拠として主として自然の合目的性を挙げている。付録では、基本的にカントの定言命法(自分の行為のルールが、同時にいつでも誰にとっても妥当なルールとなるように行為しなさい、など)と義務を求める道徳哲学に基づいた議論がなされているが、政治と道徳の二律背反に関して、公表性をキーワードとして一つの原理を提出している。訳者は解説で、カントはこの原理を更に展開したいと語っていたが実現しなかった、と述べている。
現実を肯定する視点からは、永遠平和を達成する原理を理解することの大切さは見えてこないのだと思います。カントの考えの中から、時代を超えた重要な普遍性を見つけることが出来るのではないでしょうか。
地理と理性が‘自然に’導く平和
★★★☆☆
甘い理想論は無い。「人の間には、二つの関係しか無い。つまり、論理と戦争だ」(P.ヴァレリー『テスト氏』)。これに通じる世界観が描かれている。
冒頭、「永久の平安」とは、元は墓地の言葉であり、それが旅館の看板にブラック・ユーモアで引用されていた逸話が紹介される。見方によってはこの話、全篇を貫く或る緊張感を象徴している。つまり、この地上を往き来する人々が求めるこの平安は、反面、人が性急に求めれば、却って世界の死滅を導きかねない、という事。
カントは、個人間、民族・国家間で、未知の者と隣接している事自体が戦争状態である、と明言する。だがまた、或る一極集中的な権力による支配をも、拒絶している。理性を有する者なら悪魔でも達する一致点としての平和を構想する。
永遠平和が現実的な課題である事を示す際、人類の、有限な地表の上で共生という、自然条件が根拠にされる。自然は殆ど、人の資源という見地からしか検証されないが、一つのエコロジカルな視点ではある。逆に、神の秩序としての自然から見た時には、人は無自覚的にそれに従う存在とされている。カントは主著『純粋理性批判』で、理性の限界の検証を、「地球はその上を無限に歩いていけるが、それが球体である事を知れば、限界を知る事ができる」という比喩で説明していた(他、懐疑論者を遊牧民に喩えていた)。この比喩を現実に展開したという面もある。
カントは、“世界公民的見地における一般史の構想”(『啓蒙とは何か他四篇』)で、森の樹々は太陽と空気を独占しようと対立し合うからこそ、それぞれが立派に成長すると言っている。そうでなければ、慎ましい牧羊的生活と引き換えに、個々の才能と価値は没する、と。永遠平和は、対立、不調和、不信を‘解消’すべく構想されてはいない。却って戦争状態を前提にし、逆用する。自由を最大限に確保しながら、破壊的作用を抑制すべく構想される。
素晴らしき現実主義者カント
★★★★★
カントは、常にホッブスと対比される。そこでは、一般的に、カント的とは国家を克服し、地球市民となって“世界平和”的に協力的に世界平和をえること、ホッブス的とは“単独平和”的に、いわば一国が世界の警察官として、国家同士の闘争状態に終止符をうち世界秩序を維持すること、というように解釈されることが多い。少なくともド“素人”の私にはそのように感じられる。ヨーロッパ=EUや国際連合は前者であり、最近はやや対話にシフトしつつあるが、米国のかつてのユニラテラリズムが後者と捉えているのが実情である。本当に果たしてそうか?この疑念のもと本著をひもといてみた。結果として、私に期待は大きくはずれ、カントを見直したのである(笑)。そこにはいわゆる国境なき地球市民としての“世界平和”をカントは著述してはいなかった。ホッブスと同様、“自然状態とは戦争状態にあること”が世界の実情であることを的確にとらえ、その上で、独立国家同士が互いに牽制しあいつつも、平和を維持するには国家間に国際連合的なものが必須であると説いているのであった。すなわち、カントは超現実主義者であり、そこには常備軍の廃止というユートピア的提案は確かに一部なされてはいるものの、国連はもちろん、VISAの原型や現行国際法では、まさしくカントの思考がここに照射されているのであった。一方のホッブスは、プラトン『国家』で推奨された哲人政治の利点を大きく認めたのであろう、リヴァイアサン=超国家(=現行では米国)による統治こそ世界平和の近道であると説いたのであった。かくいうカントもホッブスも、ともにリアルな世界史観のもと、最終的な方法論においての相違を呈しているにしかすぎないことが、本著によって確信されたのであった。翻訳であっても、原著を読むことが、世間的虚妄を払拭してくれる近道であることを改めて痛感した読後であった。解説本もなるべく読むまい!