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サハリン島

価格: ¥1,260
カテゴリ: 単行本
ブランド: 中央公論新社
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羊男のモデルはギリヤーク人だった。 ★★★★☆
「あんた、政治屋かい?」
「いや。」
「じゃ、つまり、書く方だね?」
「そう、書く方さ。」
「で、給料はいくらなんだい?」
(中略)
「ああ、何だって、あんたは、そんなことを平気で言えるんだい?どうしてそんなよくないことを言ったりするんだい?ええ、そんなのは、いけないね!そんなことじゃだめだよ!」
「何かわるいことでもいったかな?」
「管区長でも何でもない、ただの書き屋のあんたが、300ルーブルだなんて!とんでもないことをいうんだね!そういうことじゃ、だめだよ!」

わたしは彼らに説明しはじめた。(中略)その顔を見れば、二人がもうわたしを信用していることは、明らかだった。

「たしかにね、そりゃそうだ……」顎ひげのギリヤーク人が勢いこんで言った。
「よくわかったよ、もう行っていいや。」
「たしかにそうだな。」もう一人がわたしにうなずいた。
「行っていいよ。」

本書「サハリン島」から引用しました。
会話の部分だけををみると『羊をめぐる冒険』の羊男を強く連想します。
ギリヤーク人と羊男の関連は、嘘がつけないこと、森の中で暮らしていること、タバコを吸うこと、毛皮をかぶっていること……次から次へと思い浮かびます。

村上春樹の1Q84に引用されたことでチェーホフ全集版「サハリン島」が復刻され、私が手に取ることができました。
そして羊男のモデルがギリヤーク人であると感じています。27年越しのリンクです。
村上春樹は『羊をめぐる冒険』の中に多くの引用の手がかりを残しているといわれています。その一つがまた見つかりました。
読みやすさではこっち ★★★★★
岩波版と違い、現代語訳になっている分、読みやすいです。
『1Q84』を読んで興味を持った方には、引用はこのバージョンですからお勧めです。
やっぱり、「ギリヤーク人」のチャプターを興味深く読みました。
村上さん、ありがとう ★★★★★
 なぜだかわからないが、村上さんの作品を読むと、そこに紹介されている作品を読んでみたい、という気持ちになる。『カラマーゾフの兄弟』、『魔の山』、フロイト、すべて、村上さんの小説中に紹介があり、気になって読んだものだ。
 本作は『1Q84』にその一部が挿入されており、気になって読んだ。せっかくだから、挿入されていない箇所を紹介しよう。

ギリヤーク人は月のように真丸な顔をしており、顔色は黄ばんで、頬骨が高く、顔を洗うことなどない。(中略)いつ見ても利口そうで、柔和で、素朴な、注意深い表情だ。時には幸福そうに晴ればれとほほえむこともあり、あるいはまた未亡人のように物思わしげな、悲しげな色を宿すこともある。

 『1Q84』には、月が印象的に登場するけれど、ここにも月があった。ギリヤーク人て、表情豊かなんだな、と思った。別の箇所には、こんな文章もある。

ルイコフスカエ村には小ロシア人が多く、きっとそのためなのだろうが、ここで見るような傑作な苗字には、ほかの村ではとてもお目にかかれない。ジェルトノーグ〔黄色い足〕、ジェルードク〔胃袋〕、ベズボージイ〔不信心者〕が九人、ザルイワイ〔穴掘れ〕、レカー〔川〕、ブーブリク〔ドーナツ〕、シヴォコブイルカ〔芦毛の牝馬〕、コローダ〔丸太ん棒〕、ザモズドリャ〔垢たかり〕等々といった具合である。

 『1Q84』のヒロイン青豆、という珍しい苗字も、あるいは、この一節から村上さんが発想の種を得たかもしれない。

 チェーホフにサハリン島への旅を決意させた理由の一つとして、サハリン島の形、が気になったのではないか、と村上さんは天吾を通して推測している。『サハリン島』の中では、サハリン島は、チョウザメにたとえられている。その風変りな島の形もチェーホフの背中を押したのかもしれない。

 ケタ(鮭の仲間)に関する描写も気になった。

急流との絶え間ない闘い、窮屈さ、飢え、水底の木や石との摩擦、打撲傷などで疲れきってしまい、やせて、身体一面に皮下出血の斑点が現われ、肉はたるみ、白くなって、歯もむき出しである。このように魚がすっかり顔、形を変えてしまうため、事情を知らない人たちは別の種類と見まちがえ、ケタとは呼ばず、狼魚と呼んでいる。(中略)『死にいたるまで抑えがたい性愛の衝動は、遊牧の思想の華である。ところが、そのような理想が、愚鈍な、濡れて冷たい魚のなかにあるのだ!』

 〈愛〉のために、命がけで、――たとえ、〈すっかり顔、形を変えてしま〉っても!――急流と闘うケタに宿る理想は、『1Q84』の青豆の理想に通じているかもしれない。

顔の整形手術を受けてもらいます。(中略)別の人間になるのです。

 そんな老女の出した条件を、青豆はのんでいる。もっともこれは、オーウェル「1984年」からきているのだろうが。

「あなた方ふたり別れ別れになって二度と会わなくてもよいという覚悟ができていますか」
「いいえ!」とジューリアが口を差し挿んだ。(中略)たとえ彼が生き残ったとしても、まったく違った人間になるかも知れない(中略)あなただって別人になってしまうかも知れません。

 オブライエンの出した条件を、二人はのんでいる。

 「彼らのところには法廷などなく、裁判が何を意味するか知らないでいる」、とチェーホフはギリヤーク人たちを、おそらくは半ば呆れながら紹介している。しかし、サハリン島に出向している、同胞たるロシアの知識人たちに対する、役人たちの無能に対する失望・絶望、ひいては、サハリンを農地植民化することに対する懐疑が、『サハリン島』には、ほぼ一貫して書かれている。たとえば、こんな風に。

未決囚と禁錮(それも懲役刑務所の暗い独房での!)を区別できないこと、自由民と懲役囚を区別できないことは、ここの管区長が法学部を卒業しており、刑務所長がかつてペテルブルグ警察に勤務していたことがあるだけに、一層わたしをおどろかした。

ここの住民は公平な裁判を知らず、裁判なしに暮らしている。役人が、裁判も審理もなしに笞刑を科し、刑務所に入れ、さらには鉱山にまで送るような権利を法律上もっているところでは、裁判の存在は単に形式的な意義しかない。

 そもそも、『1Q84』を読まなければ、ギリヤーク人という人種の人が存在していることすら知らずに、一生を終えたことだろう。村上さん、ありがとう。