大きな石の顔
★★★★☆
「大いなる岩の顔」は、大きな石の顔のお話で、
かつて、小学校か中学校の国語の教科書にのっていたそうです。
主人公は、山の岩でできた大きな(気高い、神々しい)顔を見ながら、
また対話しながら、
あの大きい石の顔に似た偉大な人物がこの村に現れるという言い伝えを
信じるようになります。
その人物が現れたといううわさをきくたびに、出かけてゆくのですが、
いつも失望に終わるのです。さて、彼が老人になったとき…
この顔の人物は一体だれか?と考えさせられます。
「牧師の黒のベール」は、
罪を隠蔽する(秘密にする、抑圧する)ことの怖さ、
内側と外側に境界線(ベール)を引いてしまう怖さを感じました。
当時のキリスト者の信仰スタイルの典型として
もし描いているとしたら、現代にも同じように通じるのではないかと、
ぞっとします。
フェイス(信仰)という名前の奥さんの
出てくる短編も、何だか怖いです。
ご興味のある方におすすめさせていただきます。
小春日和の奥に潜む暗黒の力
★★★★★
本短編集、正直まだ全作品読了していませんが、強く感銘を受けたので書評します(全作品読了後にレビューを改める予定です)。
本短編集中で現在読了中のもので強く印象的なのは、『牧師の黒いベール』と『ウェーク・フィールド』です。
『牧師の黒いベール』は、それまでずっと善良であった牧師が、或る日急に顔を黒いベールで覆い、説教中でも結婚式の最中でもベールを外さずに生活し、結局は死ぬまでずっとそのままベールを付けて過ごし、棺桶の中でもその姿であったという話です。どうして牧師は急にそのような行動を取るに到ったのか、そのベールが象徴するものとは何か、これこそがこの作品で考えるべき主題です。私には答えが出ましたが、ここでは敢えて書きません。
『ウェークフィールド』は、とある夫婦があり、「ウェークフィールド」という夫が旅に出ると偽って、自宅の隣街に間借りし、時たま妻の様子を視察しながらも、二十年以上の年月をそのまま過ごし、或る日、恰も一日だけ出掛けていたというような風情で自宅に戻って来、その後はずっと親しく暮らした、という話で、「ふと魔が刺した」ことで採ってしまう行動が、如何に致命的なものになり得るかという畏ろしさを表しているように思います。ボルヘスが「カフカを先取りした作品」「凡そ文学における最高傑作の一つ」として本作を称賛、ポール・オースターも本作にインスパイアされて『幽霊たち』を書いたことはあまりに有名です。
ホーソーンと言えばメルヴィルが特に『ホーソーンとその苔』なる評論で「アメリカのシェイクスピア」、「一見すると小春日和の中に暗黒の力(Power of Blackness)が宿っている」などとして心から讃えたことも有名ですが、正にピューリタン的な清楚な日常世界の奥から闇が蠢き出しているといった風で、本書を読むことで、「私は真実のみを愛しています」と言ったホーソーンの意味深き作品の真意を、読者は捉えてみたくなるということは請け合うことが出来ます。