怪談と太宰治
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「菊花の約」を読んだ。再び会おうと約束し合った義兄弟。が、生き身のままでは、約束の日に間に合わない。そこで彼は、自ら命を絶ち、魂となって再会を果たす。太宰「走れメロス」を思い起こさせる作品だ。
縦のつながり(上下関係)と、横のつながり(友情)との融和が、「走れメロス」のテーマの一つであったのだな、と気づかされた。メロスはセリヌンティウスとの間にある友情を、目に見える形で、王に証明して見せた。王は、二人の友情に感じ、自分も仲間に入れてくれまいか、と二人に頼む。王は、セリヌンティウス(領民)との間にある上下関係の垣根を壊し、メロス、セリヌンティウス、王の三人は友情を中にして結びつけられる。太宰は、怪談を好んだそうである。「菊花の約」を、「走れメロス」の材源の一つとした可能性も、あるいはあるかもしれない。
話が飛ぶが、アポリネールの短篇「アムステルダムの水夫」は、恐ろしい作品である。怪談的な恐ろしさと、光ひと筋さえ入りこまない、まったく隙のない文章とは、この世のものとも思えない恐ろしさを秘めている。ところで物語の、<もの>とは魂、と言う意味だそうである。物の怪、物忌み、憑き物、物語、……。魂が語る言葉、それが物語となって生み落とされる。究極の物語とは、怪談である、と言うのは、ここから来ているのではないか。
寺山修司は言った。人生そのものが謎だらけなのに、小説家は、なぜ、推理小説をものするのか。私は言う。単純なことさ。人生の謎は必ずしも解けるとは限らない。推理小説の謎は、最後には解ける。怪談を好む人の心理も、これに似ているのではないか。世の中は怪談よりも怪談的である。世の中の恐怖は容易に乗り越えられない。怪談の恐怖は、その場限りである。
変なことばかり書いてしまいました。失礼しました。