事件史とは違う、ゆっくりと変化する歴史の姿
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「事件史とは違う、ゆっくりと変化する歴史の姿」を見直すことを目指した本書は、『農書』という切り口からイスラーム世界の歴史の一端を眺めた、実に興味深い一書です。歴史学というと、どうも壮大なる事件史や傑出した個人に衆目は集中しがちですが、本書はそういう流れとは一線を画した、どう言ったものか、そう穏やかな気持ちで向き合えるような学問らしい学問著作という感じが私などはしております。
まず目次をあげておきましょう:
(序)文字文化・非文字文化と農書
(1)農書の成り立ち
「食」をめぐるさまざまな書
農書の始まりと伝統
アンダルスで書かれたアラビア語農書
アラビア半島、エジプトで書かれた農書
オスマン語の農書
地域の事情に農書をあわせる試み
(2)農書を読む
『農業便覧』を読む
序に見る農業思想
土壌の選定
農事暦と月の名
『農業便覧』の中の「農事暦」
穀物の播種と収穫時期
(3)乾燥地と乾燥地農業
乾燥度をはかるもの
播種量が重要
小麦・大麦栽培にみる乾燥地農業の姿
天水農業と灌漑農業
(4)農書から広がる世界
多様な品種
名前からわかる地域性
穀物の農法
野菜栽培の農法
(5)農書写本の世界
さまざまな写本
偽書の発見
実用の手引き
著者が指摘し、かつ詳細に紹介するように、イスラーム世界でも日本、中国などと同様におびただしい数の『農書』が書かれ、また読まれてきました。現存する最古の農書『ナバティア人の農書』(浩瀚!)にはじまり、アラビア、イラン、そしてトルコで書かれた『農書』の数々が本書では概観されます。それぞれお国柄、というよりは作柄に応じて多様な『農書』が書かれており、それぞれの『農書』をざっと比べるだけでも、それぞれの地域性を窺い知ることが可能なのではと思われました(なにぶん、本書はおそろしく短い本なので、それが十分に言い尽くされているわけではないところが残念なのですけれども)。
さらに著者は16世紀前半ヘラートでハラウィーなる人物によって著された『農業便覧』を詳細に紹介するわけですが、ここで示される、一般的な農書の構成が現代の農学部の講座構成と同一である、との指摘はなかなか刺激的でありました。イスラーム世界の学術はギリシャ・ローマのそれを受け継ぐものであり、近世のヨーロッパ文明、そして現代文明はそのイスラーム世界の学術を下敷きにして成立している、という「常識」を久しぶりに思い出した次第です。イスラーム世界の文字文化が、現代を生きるわれわれの文化とまったくかけ離れたものではなく、むしろ同一の系譜に連なる要素を確かに持っているのだ、ということを本書はあらためて示したと言えるでしょう。