インターネットを利用していると、自分の閲覧したサイトの情報が誰かによって収集され、その結果、自分用にカスタマイズされた商業広告が自動的に送信されてくるようになる。また、オンライン登録をしたときの個人データが、企業によってひそかに売買されているという事実もある。このように、誰かが強制的に個人をスパイしたりするような狭義の監視だけではなく、電子的な通信情報テクノロジーによって、私たちの日常生活がモニタリングされていることをも、監視活動の一部として考えようと提案するのだ。
監視というと、どうしても否定的な側面ばかりが強調されがちだ。だが、たとえば正当な代金が銀行口座から引き落とされるためには、クレジットカードの使用状況を記録する必要があるように、個人データのモニタリングは個人や企業、政府にとって利便性があるからこそ発達してきた。社会全体が合理性とリスク管理をもとめてきた末にたどりついたのが、効率的な監視システムであり、近代以降においては、社会そのものが監視というプロセスを必要とし、その構成要素として監視を内部に組みこんでいるというのだ。
都市空間にはりめぐらされる監視システム。個人の身元確認を行う網膜スキャンやDNA検査といった生体認証。インターネットなどの国境を越えていく情報の流れ。本書は、多様なレベルで広がる監視社会のすそ野を、社会学の枠組みでとらえようとする画期的な試みである。(金子 遊)
しかし、監視が危機的であるという認識もまた正しい。ライアンは、監視の危険性を描き出すために、情報化社会を取り出してくる。
現在進行している新しい監視は、非身体化という概念で整理される。つまり、今までは生身の我々が監視されていたのだが、現在は監視の対象が我々の一部に変化したとしている、つまり、住所や年齢といった情報、あるいは網膜や指紋といった身体の一部の情報、またあるいは街頭で立っている姿をとらえた画像といったような形で。
さらに、細切れにされた私たちの身体は、以前とは異なり、我々の与り知らぬ場所:サイバースペース:で取り結ばれる。監視の非身体化により、監視がより十全に社会を覆い、且つ監視の可視性は奪われ、自由が奪われていく。
このような現在の監視の整理の後、ライアンは成すべきことを指し示す。ポストモダンとモダンの境界を往来しながら、目指されるべき未来を提示している。
それが成功しているかどうかは読んで確認してください。ただし、近代を安易に否定せずに監視を否定的に捉える営みは、素晴らしいと思います。
僕たちは、市場経済社会の中で暮らすことを選択し続ける限り、市場において、消費者として貨幣を媒介とし、商人(商店)から物質・サービスを購入する。その取引において、貨幣の代替としてクレジットカードを用いて決済を行う場合もある。そのカードの履歴=商品の購入記録から、対象となる人間の消費嗜好を分析し、次ぎに消費の対象となる商品・サービスについての予測を立案し、提供することを可能とする。そして、実際にあらゆる商業活動を!行う企業においては、もはや上記した手段によるマーケティングは必須であることが本著作により確認できる。
次いで、僕らはE-Mail、インターネットを日常的に利用する環境に慣れ親しんでいる。そして、それらの一つ一つの通信内容さえ、監視・記録されており、友人へと送信したメールの中に記述されている表現内容から、個人のパーソナリティを特定・分類されてしまうかもしれない可能性を有していることを実感する。同時に、デリケートな内容を含む事柄をメールにより送信することの危険性も実感できる。(特に第6章:グローバルなデータの流れ)
そして僕たちは、ネット上で商品を閲覧し、商品を発注する機会が多々ある。そのような時に、安心して個人情報を提供しても構わないと感じられる、安全なサイトを!選択するようになる。
以上のようなことを、本著作により考えるようになる。
しかしながら、これだけ情報監視の網が張り巡らされているにも関わらず、犯罪の検挙率が下がっているのは、なんでろ??