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監視社会

価格: ¥2,520
カテゴリ: 単行本
ブランド: 青土社
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   カナダの社会学者であるデイヴィッド・ライアンは、本書で「情報社会は監視社会である」と断言する。とはいっても、マンションやデパート、さらに繁華街にいたるまで、あらゆる場所に監視カメラが設置されるようになったから、という意味だけではない。ライアンは、監視の行為を「個人データの収集・保存・処理・流通」という、もっと広い意義でとらえなおそうとしている。

   インターネットを利用していると、自分の閲覧したサイトの情報が誰かによって収集され、その結果、自分用にカスタマイズされた商業広告が自動的に送信されてくるようになる。また、オンライン登録をしたときの個人データが、企業によってひそかに売買されているという事実もある。このように、誰かが強制的に個人をスパイしたりするような狭義の監視だけではなく、電子的な通信情報テクノロジーによって、私たちの日常生活がモニタリングされていることをも、監視活動の一部として考えようと提案するのだ。

   監視というと、どうしても否定的な側面ばかりが強調されがちだ。だが、たとえば正当な代金が銀行口座から引き落とされるためには、クレジットカードの使用状況を記録する必要があるように、個人データのモニタリングは個人や企業、政府にとって利便性があるからこそ発達してきた。社会全体が合理性とリスク管理をもとめてきた末にたどりついたのが、効率的な監視システムであり、近代以降においては、社会そのものが監視というプロセスを必要とし、その構成要素として監視を内部に組みこんでいるというのだ。

   都市空間にはりめぐらされる監視システム。個人の身元確認を行う網膜スキャンやDNA検査といった生体認証。インターネットなどの国境を越えていく情報の流れ。本書は、多様なレベルで広がる監視社会のすそ野を、社会学の枠組みでとらえようとする画期的な試みである。(金子 遊)

監視社会の行く末を見ること ★★★★☆
2001年出版(翻訳は2002年)のちょっと古い本だが、ローレンス・レッシグの『CODE ver.2.0』に引き続いて、読んでみた。

2001年9月11日の同時多発テロの前に書かれたものだけれども、ますます進んでいる監視社会の行く末を論じた、なかなか考えさせる本。

テクノロジーが監視を強めていくことへの懸念については、レッシグの本と同様だが、その解決に当たっては身体性の重視といった、ちょっと哲学的な、あるいは社会学的な論述になっている。

仕事柄、プライヴァシー関連の本を読んだが、その中でも、この本はベンサム、フーコーに始まり、監視の変化についてよくまとめられている。

じゃぁ、これを現実のプライヴァシー、個人情報の保護政策にどう生かすかと言われると、ちょっと難しい内容だなぁ。
監視の二つの顔 ―保護と管理について ★★★★☆
「「ポストモダン」や「グローバル化」、「情報社会」といった表現が、現代の主要な社会的変動に
光を当てるべく考案されたのに対して、「監視社会」という概念は、そういった変動の結果でも要
因でもある、いくつかの著しく重要な社会的プロセスを強調する」(p.17)

筆者は社会学の視座から、「情報社会の裏面は監視社会である」(p.184) と、鋭く指摘している。
そしてこのような監視社会は政府の陰謀とか資本主義の悪影響とかいったものではなく、私たちの
社会が情報通信社会の恩恵を希求するがゆえに発生したことだと看破する。また、監視社会への
対抗イデオロギーとしてプライバシーが持ち上げられることが多いが、筆者はこの考え方に与しない。
むしろ、プライバシーを保護してもらいたいという発想から、我々は進んで管理された社会、すなわち
監視社会へと入っていく。

ミシェル・フーコーやマックス・ウェーバーの監視と権力の議論も出てくるなど、社会学の本としての
専門性は高いが、多くの事例が出てきているため、専門外の人でも取っ付きやすい。ただ、事例の
多さのために本書を貫くテーマを見失いやすく、中盤は冗長に感じるかもしれない。序章、第一章、
第九章を読むだけでも筆者の主張は理解できるので、現代の監視社会の問題構造の粗筋を知り
たい人は、そこだけでも読んでいただきたい。個人的には第七章の理論に関する章が、監視を合理
化の産物と見るか技術革新の産物と見るかなどの議論の系譜を学べて、一番面白かった。
新しい監視社会理論 ★★★★★
近代は監視を前提としている。
これはフーコーが暴き出した事実だが、彼やポストモダニストたちは、そこで、監視を、そして近代を攻撃した。
しかし、監視を否定することはできないはずである。ここは近代なのであり、近代的秩序、近代的自由を保障しているのもまた、監視だからである。

しかし、監視が危機的であるという認識もまた正しい。ライアンは、監視の危険性を描き出すために、情報化社会を取り出してくる。

現在進行している新しい監視は、非身体化という概念で整理される。つまり、今までは生身の我々が監視されていたのだが、現在は監視の対象が我々の一部に変化したとしている、つまり、住所や年齢といった情報、あるいは網膜や指紋といった身体の一部の情報、またあるいは街頭で立っている姿をとらえた画像といったような形で。

さらに、細切れにされた私たちの身体は、以前とは異なり、我々の与り知らぬ場所:サイバースペース:で取り結ばれる。監視の非身体化により、監視がより十全に社会を覆い、且つ監視の可視性は奪われ、自由が奪われていく。

このような現在の監視の整理の後、ライアンは成すべきことを指し示す。ポストモダンとモダンの境界を往来しながら、目指されるべき未来を提示している。

それが成功しているかどうかは読んで確認してください。ただし、近代を安易に否定せずに監視を否定的に捉える営みは、素晴らしいと思います。

そうなのか。。。 ★★★★★
僕たちの日常は、全て、他人の監視の目に晒されている。
監視の目は、現実的な日常生活、そして仮想社会である情報通信の世界までが対象範囲である。そして、その監視システムは、完全に日常生活の隅々にまで行き渡り、僕たちの行動は完全に記録されている。

僕たちは、市場経済社会の中で暮らすことを選択し続ける限り、市場において、消費者として貨幣を媒介とし、商人(商店)から物質・サービスを購入する。その取引において、貨幣の代替としてクレジットカードを用いて決済を行う場合もある。そのカードの履歴=商品の購入記録から、対象となる人間の消費嗜好を分析し、次ぎに消費の対象となる商品・サービスについての予測を立案し、提供することを可能とする。そして、実際にあらゆる商業活動を!行う企業においては、もはや上記した手段によるマーケティングは必須であることが本著作により確認できる。

次いで、僕らはE-Mail、インターネットを日常的に利用する環境に慣れ親しんでいる。そして、それらの一つ一つの通信内容さえ、監視・記録されており、友人へと送信したメールの中に記述されている表現内容から、個人のパーソナリティを特定・分類されてしまうかもしれない可能性を有していることを実感する。同時に、デリケートな内容を含む事柄をメールにより送信することの危険性も実感できる。(特に第6章:グローバルなデータの流れ)
そして僕たちは、ネット上で商品を閲覧し、商品を発注する機会が多々ある。そのような時に、安心して個人情報を提供しても構わないと感じられる、安全なサイトを!選択するようになる。
以上のようなことを、本著作により考えるようになる。

しかしながら、これだけ情報監視の網が張り巡らされているにも関わらず、犯罪の検挙率が下がっているのは、なんでろ??