ジョムソン街道
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ジョムソン街道 吉井一仁
早く目覚めた時、4時からのNHKラジオの「こころの時代」を聞くことにしています。それは2008年10月でした。「ネパールの秘境に老いの華開く〜古希からの農業伝道」という近藤亨さ
んの話には驚きました。
ネパールの山岳地域のムスタンで農業指導を実践している話でした。御年87歳、それももう20年近くも続けているのです。
ムスタンは標高3000メートルの高地だそうです。自然条件の厳しい中でリンゴの改良、水稲の栽培、家畜の飼育、マスの養殖等々を現地の若者に教えて、生活改善を図っているとのこ
とでした。しかも定年後、日本を離れネパールに骨を埋める覚悟で取り組んでいるのでした。
年が明けて、2月の初めでした。上毛新聞に近藤亨さんの「ネパール辺境から 現代日本へのメッセージ」という講演会が2月11日に前橋で開催されるという記事が載りました。
記事によると、伊勢崎のパスの会の山口さんは「ラジオ深夜便」の近藤さんの話に感激し、直接話が聞きたいと思い立ち、すぐに問い合わせをしたそうです。ちょうど新潟に近藤さんが帰
国していたので早速会いに行き、前橋で講演会をしてもらえることになったとのことでした。
私は、ラジオを聴いて感心していただけでしたが、感激して講演会を立ち上げてしまう山口さんの行動力には頭が下がりました。
講演会の当日、前橋市民文化会館の第5会議室に少し早めに行きました。すると近藤さんがもう会場に来ていて、一人で客席の椅子に座っていました。長い白い髭が印象的でした。周り
に誰もいなかったので、ラジオ深夜便で先生のお話を聞いて感激して講演会に来たことを伝えました。
近藤さんの講演には迫力があり、とても87歳の高齢には思えませんでした。1970年代の日本の農業政策(米の減反)に失望して、ネパールの農業指導に道を求めたそうです。現在、耕
地放棄が増加している日本の農業の行く末を案じていました。
講演後、質疑応答の時間がありました。その中で、パスの会の若者が近藤さんのところへ農業実習に行く計画があるという話が出ました。私も行ってみたい気持ちに駆られましたが、在
職中なので無理だと思いました。
講演会場にはネパール品々が販売されていました。近藤さんの著書「ネパール・ムスタン物語 秘境に虹をかけた男」を自分用に、ムスタンで作られた乾燥リンゴのチップと紅茶(仏陀の
目が描かれた袋に入っている)を妻に買ってきました。
退職した年の2009年の暮から正月にかけてネパールに行くことにしました。山の好きな妻は、ネパール・ムスタンの近藤さんに興味を持った私の気持ちを察して旅行社の幾つもあるツァ
ーの中から、ムスタンに近いジョムソンまで行く「ネパールはどうなっているか。ヒマラヤを見てこよう」というツァーをネットで探してきました。
私はすぐに飛びつきました。
コースは、南部チトワンで国立公園をゾウに乗ってサファリをした後、中部のポカラから飛行機でヒマラヤの山々を見ながらジョムソンに飛び、ジョムソンからポカラまでのジョムソン街道を
カリ・ガンダキ川に沿って歩いたり、車に乗ったりしてポカラまで下りて来るというものでした。ツァーには講師も付くのでいろいろ教えてもらえそうでした。
11月に旅行社のネパールに関する説明会が東京の本社近くでありました。2人で参加することにしました。私は近藤さんのことを聞いてみようと思って彼の著書を持参しました。
説明会では、ネパールの概要や今までに行った幾つかのコースの報告がありました。寒いと思っていたら、緯度が低いため意外と温暖な気候であることが分かりました。
説明会が終わってから、旅行社の本社に行って近藤さんのことについて話を聞くことにしました。
「ネパール・ムスタンで農業の指導をしたり、学校や病院を建てたりしている近藤さんを訪ねられればと思っているのですが、知っていますか」
ネパール方面が専門の旅行社だから、詳しいことが聞けると思って期待して返事を待っていると、対応に出た青年は
「近藤さんですか、知りませんね。」
「ラジオで紹介されたり、本も出しているんですが、社内で話題になったことはありませんか。」
「ネパールには有名な人は沢山いますから、うちの会社では知っている人はいないと思います。」
近藤さんにまったく興味を示さないので、持って行った著書を出す気にもなれませんでした。知らないなら、せめてどんな人ですかと興味を持ってもらえれば話が弾んだのですが、聞こうと
する態度が見られなかったのでそれ以上は話題にしませんでした。
帰ってきてから、私たちのツァー担当にそのことをメールで伝えると、年配のスタッフには近藤さんを知っている人がいるとのこと、そして近藤さんに会いたいのなら個人のツァーを組んで
行く方が良いでしょうとの返事でした。近藤さんに会うことを今回は諦めてこの旅に参加することにしました。
12月30日、ネパール5日目の早朝、一行13人(参加者10人、添乗員1人、講師1人、現地ガイド1人)はポカラの飛行場を飛び立ち、ヒマラヤの8000メートル級のダウラギリやアンナプ
ルナの山々を横に見てジョムソンに向かいました。
ジョムソンの飛行場(標高2743メートル)に降りて、すぐ近くのホテルで小休止してトレッキングの準備をしました。ミルクの入った温かいお茶を飲んだ後、私はホテルの前の通路に出てい
た出店の品物を見ていました。ジャガイモやリンゴやオレンジはみんな小さいものばかりでした。ニンニクや唐辛子やショウガ等の香辛料が目立ちました。その中に近藤さんの講演会の折
に買った乾燥リンゴがビニール袋に入って並んでいました。それを買おうとしたその時です。
白馬にまたがった老人が数人の集団でカル・ガンダキ川の上流の方からパカパカと石畳の道をやって来ました。その老人はなんと近藤さんその人でした。白馬の近くに駆け寄り、
「今年の2月、前橋の講演会でお話を伺った者です。近藤先生の仕事が見たくてここまで来ました。まさか会えるとは思いませんでした。お元気そうで良かったです。この髭は先生の髭を
見て、伸ばしました。」
「うちの事務所はすぐ上です。寄っていってくださいよ」と笑顔で言いました。
「私たちはすぐに下の方に出発するので、お伺いする時間がありません。残念です」と言いながら握手をしました。
白馬にまたがった近藤さんは忙しいらしく下の方へそのまま行きました。日本から研修に来ているらしい青年がもう1頭の馬に乗っていました。いろいろ話をしたかったのですが、何しろ突
然のことでしたので叶いませんでした。
私は、只一行のうしろ姿を見守るばかりでした。
10分後、私たちも近藤さんたちが下りて行った山道を氷河の雪解け水が流れるカリ・ガンダキ川に沿って歩き始めました。
山に木は無く、草もほとんどありません。歩く道は自動車道と言っても、大きな石がごろごろと転がっています。風は冷たく時々埃を舞い上げます。そんな道を牛に丸太を背負わせ、自らも
丸太を背負って歩いてくる人に出会いました。薪を一杯につめた篭を担いで来た2人の少年にもすれ違いました。川原の奥の方に近藤さんたちが植林されたであろう緑の林がありました。
上空ではハゲワシが風に向かって飛翔しているのが時々見えました。
石積みの塀に囲まれた石作りの平屋の小さな家がまばらにありました。その庭から木で作った竹馬に乗って遊ぶ子どもたちの元気な声が聞こえてきました。
そんな道を30分ぐらい歩いた時でした。石塀に囲まれたリンゴ園で働いている人たちがいました。
その中に、白い毛糸の帽子に白い髭の近藤さんが見えました。村人にリンゴの木の剪定の指導をしているではありませんか。道路から少し遠かったのですが思い切って大声で、
70歳からスタートするなんて!
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私ごとですが、還暦を迎えるに当り、新しいビジネスをスタートしました。「首を言い渡されるのをドキドキしながら日々待ってるよりも、今の自分に考えられる最も将来性のあるビジネスモデルを0からスタートしよう。自分のビジネスだから、身体の続く限りマイペースで続けられるじゃないか。」こう考えたからです。
そうは言っても家族のバックアップ、自分自身の身体の心配、考えれば考えるほど将来が不安になりました。その時たまたま見たテレビで「70歳からネパールに行ってコメ作りに挑戦した男」が放送されていたのです。
勿論「ネパール・ムスタン物語」もすぐ購入しました。1頁めくるごとに、勇気が湧いてきました。若者から段階の世代まで、挫けそうな男に・・・必見です。
覚悟と誇り
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こんな日本人がいる。お話を伺い著書を読み、握手していただいた時の感触が蘇りました。幾多の試練を乗り越えた男の手は信じられないくらい柔らかく優しい手でした。
ご一読をお薦めいたします。
すごい!!!
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すばらしいとしか言いようが無い。
80歳を超えて荒地を緑にする。
もはや超人の域である。
日本人の誇りです。
一代快男児の夢
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たったひとりの70歳を過ぎた老農技術者が定年を迎えて、ネパールの北の広大な一地域の生活改善を成し遂げようと決意する。ネパール人でさえ赴任を嫌がる秘境ムスタンに赴き、70歳から85歳までの15年間で、裸麦やライ麦、そば、ジャガイモしか採れなかった痩せた土地で、平均寿命45歳、学校も病院もなかったこの土地で、世界最高高度の稲作に成功、アメリカの技師も見捨てた植林に成功、りんごやメロンの栽培に成功、牧場を作り、牛を増やすことに成功、養殖池や、病院や学校を次々と建設しようとしているのである。
たった一人の日本人の決意が、国王を動かし、住民を動かし、日本最大のNPO組織MDSAを作る。これは「一代の快男児」の夢であり、日本人としての誇りである。彼一人の方が、へんな政府代表よりもよっぽど外交している。