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エレクトラ―中上健次の生涯

価格: ¥2,500
カテゴリ: 単行本
ブランド: 文藝春秋
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中上健次にとって、小説を書くという行為は自己救済の意味があったのだろう。 ★★★★★
確か高校生の頃だったと思うが、中上健次がどういう作家なのかをまったく知らずに「岬」を読んだ。ところが、重苦しい雰囲気、(当時の自分にとって)読みづらい文章についていくことができず、結局最後まで読み通すことができなかった。

そして、三十歳代中盤頃に再度読んでみた。その時は、著者の生い立ちについて一定程度知識があったためか、自分自身も人生経験を重ねたのかは分からないが読了することができた。

しかし、凄い小説だとは感じたが好きな小説ではなかった。文学的には素晴らしいのかもしれないが重苦しいばかりだったからだ。ただ、作家中上健次に対する興味を抱くことにはなった。とはいえ、小説自体が好きになれなかったので、それも長続きせず、いつの間にか忘れてしまっていた。

書店でこの評伝を見かけたとき、このようなことを思い出しながら手に取った。

出生、幼少時の体験を知るに連れ、中上健次にとって小説を書くという行為は自己救済以外のなにものでもないように感じた。

きっと小説家を目指していた時期もあるだろうと思える著者の感傷的な文章も、評伝、しかも中上健次という作家の評伝であれば、それも効果的であった。
(著者の名前をどっかで聞いたことがあるのだろうと思っていたが、「酒鬼薔薇聖斗」事件の作品だった。この文章で事件物を扱っていたのか、と、かなり驚いた)

で、改めて彼の小説を読んでみようとする気になったりもしたのだが、しかし、更に重苦しさが増してしまうのは明らかであり、いまいち踏み切れないでいる…。

この本のオビには「文学の獣の咆哮を聞け」と書かれている。誰が考えたのかはわからないが、中上健次の小説を言い表す言葉として、これ程はまっている言葉はない。
圧倒された評伝。 ★★★★★
これまでも幾つかの評伝を読んだが、これ程に圧倒されたことはかつてなかった。
当然、中上建次の作品も何作かを耽読したが、それらの作品がどのように生まれ、編集担当者との壮絶なやりとりの末完成されたかを知ると、もう一度中上作品を読み直さずにはいられない。
無頼派、豪放磊落、破滅的な作家とならした中上健次もこの作品を読むと、物悲しくもあり、家族をこよなく愛した普通の男の一面も理解できたような気がする。内包するエネルギーを常に放出してるような印象を持っていた作家だったが、少しではるが身近な存在となりえた気がする。
あの時代、あのような出自を背負い生きた男の足跡を、著者はしっかりと描き追った渾身の評伝である。中上作品を読んだことのない読者にもお奨めだ。
“中上健次に迫る道標”といってもよい ★★★★★
私自身の中上健次との出会いは「地の果て 至上の時」。
そこからさかのぼって作品を読んで行く方向と、
作品をリアルタイムで読んでいく方向との2方向で付き合ってきた。
作品世界の豊饒さと読み解く順の交錯とで、より豊かさが広がったと思っている。

中上健次のあまりにも早い死は衝撃だった。
それだけに、「第11章熊野に死す」は静かで悲しかった。

レビューにもある通り、作家は作品で評価するのが第一ではあると思う。

しかし、中上健次を読みたい人に何を読んだらよいかのアドバイスは難しい。
これまでまったく読んだことのない人ならなおさらである。

一人でも多くの人に、中上健次に出会ってもらうためには、
本書のように、それだけで読み応えのある評伝は必要なのだとあらためて感じた。
本書を読んでもらうのも、中上健次に迫るひとつの道になるのではないかと思えた。


中上健次を評価するとすれば、純粋にアウトプットで評価せよ! ★★★★☆
 読み応えのある評伝だった。読み物として面白かった。
 「これを書かなければ生きていけないというほどのいくつもの物語の束をその血のなかに受けとめて作家になった者がどれほどいるだろうか」って言葉が出てくるんだけど、ここの捉え方はかなりセンシティブである。もちろん書くことがある人はいくらでも書けばいいんだけど、じゃあ、書くことがない人は書く資格ないのかよ、っていうさ。人には、書くこともないのに物書きになりたいとか、芸もないのにタレントになりたいとか、そういう有名性やドラマ的人生への欲望ってあると思うのだ。「ダメ親だったらグレられたのに...」みたいな本末転倒。語りたいことの有る無しじゃなく、「語りたい」というそれ自体の欲望。ほら、古くは太宰なんてのは、「語りたい」がために共産党活動に身をやつしたり、自殺未遂や心中を繰り返したりしたんだと思うんだよな。つまり自分の人生ってコンテンツが豊饒であるってことを世の中的に刻んで死んでいきたいって欲望。それって意外に本能と直結してる気がする。
 そりゃぁ中上健次ってはこの評伝通り、その人生も過剰なくらい豊饒なんだけど、やっぱ評価すべきはその「語り」である。ほら、書くべき人生が無くたって、書かれたものが面白いかどうかが勝負なわけでさ。中上自体もそこに拘っていたと思うんだよな、出自に拮抗した語り。もちろん書くべきことがないのに、面白いものが書ける確率ってかなり低いだろうけど、逆にそれって才能だし。実人生=物語ってアナロジーじゃ、実人生が豊かじゃない人はやってられない。今のブログ隆盛なんてのは、実生活と別の人生を作れることの可能性、もうひとりの(ドラマチックな)自分を生きることへの欲望だもんね。とはいえ読むほうは、それがウソだろうとマコトだろうと面白けりゃいい訳でさ。もとい、中上健次を評価するとすれば、純粋にアウトプットで評価せよ!ってことだ。
文学って、苦行なの? ★★☆☆☆
 今や伝説となった中上健二の評伝です。著者によれば、
フーテン、薬物依存、そして被差別部落に学生運動と、
同時期に青春時代を過ごした者ならどれかに思い当たる
ような経験を、彼はフルコースで演じていたとのこと、その
人の人生が後に神格化されたのもむべなるかなと思いま
した。
 被差別部落で非嫡出子として生まれ、母親が他の男と
婚姻すると共に姉達が離散、後には兄も自殺してしまう
という、その運命の客観化を生涯のテーマとした彼ですが、
結局は自らの家族に救われたように思います。エピロー
グに収められた次女あての私信は、人生の先輩としての
成熟した暖かいまなざしとわが子への深い信頼で満たさ
れていました。
 マグマがたぎるような熱い小説への想いと、憑かれた
ように故郷、熊野を語りの海として再生しようする姿勢は、
いずれも稀有のものだったのでしょう。しかし、とわたしは
思うのです。人は小説を書くことに、これほどまでに苦しむ
必要はないのではないかと。
 例えば、最近読んだ近藤史恵『サクリファイス』は、肩の
力を抜いた筆づかいで、読後の爽やかさを感じさせたし、
玉岡かおる『お家さん』や伊坂幸太郎『ゴールデンスラン
バー』はフィクションを楽しみながら神戸や仙台という地域
の息遣いを感じることができました。それで、いやそれだ
けでもいいのではないでしょうか。