関川夏央の文章は、わりと好きではある
★★★★☆
解説を加藤典洋が書いていて、正直言ってあまり好きな書き方ではないのだが、私がこの本を読んで感じて考えて、ここに書こうかと思ったことはほぼ総て書いてある。「なぜこの二人なのか。/そもそもこれは評伝なのか。/そして二つを合わせ、単行本としたときのタイトルが『女流』。/なぜそうなるのか。」(p266)……そしてこれらの疑問に対する解答案にも、大筋で異論はない。
ただ繰り返すが、書き方がイヤだ。妙にハードボイルドな比喩の濫用、さして複雑でもない主張を嵩上げする意味不明瞭なレトリック。要するに、無駄に思わせぶり。加えて疑問なのが、林と有吉の2人を「彼ら」で呼んでいる部分が2か所あって(p269の5行目)、加藤のポリシーなのかなと一瞬思ったんだけれど、しかしその2行後では「彼女ら」と呼んでいるから、やっぱり単なる誤植かな?
本そのものは、私は面白かった。関川は上手いよ。かなりお手軽にまとめてるけど。
あと、「日本の戦後文化の形成に、帰国子女たち、引揚げ子女たちは大きな影響を与えた」(p190)というのは、もう少し掘り下げて考えてみたいと思わせる指摘だった。
二人の女流作家が駆け抜けた二つの昭和
★★★★★
なぜ、明治生まれの林芙美子と昭和生まれの有吉佐和子をセットにして一冊にしたのか。
前半は「林芙美子の旅」…貧ゆえの「放浪の旅」を余儀なくされたが、旅の好きな人だった。パリー・ロンドンにも行っているし、中国旅行をして上海では魯迅に会っている。日中戦争中、従軍記者として「女流一番乗り」を果たした。国内でも「流行作家リレー飛行」に喜んで参加した。145センチの小柄ながら活動的な才女だった。貧苦に耐えて小説を書き続けた。彼女に「旅人」の刻印を押したのは母キクだった。
後半は「有吉佐和子的人生」…作家として二十代の出だしから小説的整序があったが、四十代に入って老人問題、農薬汚染と公害問題を扱う社会性を扱うバイタリティーがあった。「非凡人たる彼女は特異なまでの燃焼効率を誇って」53歳で燃え尽きた。本書では「女流」と冠しているが、単に「女性」作家であろう。「女流」という言葉を生み出すシステムとよく戦ったみるのも頷ける。
二人に共通して言えることは、前進する戦車のようにたくましく、したたかに、生命力が溢れすぎていた。この早逝の「女流」二人に愛惜の念をこめて本書は書かれている。作品を読むだけでは分からない作家の実像が歯切れよい文章で活写されている。
「旅の人」女流、「過熱の人生」女流
★★★★★
なぜ、明治生まれの林芙美子と昭和生まれの有吉佐和子をセットにして一冊にしたのか。
前半は「林芙美子の旅」…貧ゆえの「放浪の旅」を余儀なくされたが、旅の好きな人だった。パリー・ロンドンにも行っているし、中国旅行をして上海では魯迅に会っている。日中戦争中、従軍記者として「女流一番乗り」を果たした。国内でも「流行作家リレー飛行」に喜んで参加した。145センチの小柄ながら活動的な才女だった。貧苦に耐えて小説を書き続けた。彼女に「旅人」の刻印を押したのは母キクだった。
後半は「有吉佐和子的人生」…作家として二十代の出だしから小説的整序があったが、四十代に入って老人問題、農薬汚染と公害問題を扱う社会性を扱うバイタリティーがあった。「非凡人たる彼女は特異なまでの燃焼効率を誇って」53歳で燃え尽きた。本書では「女流」と冠しているが、単に「女性」作家であろう。「女流」という言葉を生み出すシステムとよく戦ったみるのも頷ける。
二人に共通して言えることは、前進する戦車のようにたくましく、したたかに、生命力が溢れすぎていた。この早逝の「女流」二人に愛惜の念をこめて本書は書かれている。作品を読むだけでは分からない作家の実像が歯切れよい文章で活写されている。
コワカワイイ女達
★★★★☆
女性が自由に生きると揶揄された時代に、自我にとことんこだわった二人の「女流」作家の生きた道筋の本です。
著者はその生きた時代の断面に丁寧に腑分けしながら、二人を寄り添うことなく、突き放すことなく、たどります。
現代を生きる女性で、社会の中で、あれも欲しいしこれもほしい、ただし男によってもたらされるのではなくてと感じている人は彼女たちの中に自分をたやすく見つけられるでしょう。そして、そのこわかわいらしさに彼女たちの切なさを見るでしょう。
才能は人に自由と不幸を与えます。
はしごをのぼらせては直ぐにはずす、そんな世間の中で彼女たちは己が生を急ぎ、前のめりのまま倒れこみました。
その後の茫漠とした時間が現代なのだと感じました。