赤毛のアンにひかれて
★★★★☆
「赤毛のアン」がタイトルに含まれているのに興味をそそられて、読んでみた。
私は、子どもの頃以来、少なくとも5回は「赤毛のアン」を読んだが、当初はアンに感情移入しながら読んでいたのが、いつしかマリラの気持ちが良く理解できるようになり、一番好きな登場人物になった。本書は、そのマリラの変化成長を取り上げていて、そのとらえ方に共感できる。
また、英文学では、登場人物がその物語の中で、精神的に変化成長していく「自己発見のパターン」があると言う。
これが、私が英文学好きである理由ではないかと思った。
さらに、「高慢と偏見」では、語り手と視点、「大いなる遺産」では、視点の変化・転換、そして「ジェイン・エア」では、映画化の工夫を対比させて、筋立てをどう解釈するかなどの問題を、平易に解説していて、おもしろかった。
読みながら、自分なりの考えも浮かんできて、本当に講義を受けているようだった。
村岡花子はなぜ「マリラの告白」をカットしたのか
★★★★★
本書の4章と5章では、原文と日本語訳から「赤毛のアン」を比較考察している。
原文では37章のマシュウの死後、マリラはアンに、今までつらくあたってきたが本当はマシュウと同じくらいアンのことを愛していたのだと、心の中を素直に告白している。しかし新潮文庫でおなじみの村岡花子の翻訳ではこの部分はカットされている。なぜこのようなことがおこったのだろうか。
E.M.フォースターは「小説の諸相」の中で、小説の登場人物をただひとつの性質である「フラット」と、性格づけが一元的でなく発展性のある「ラウンド」という二つに分類していると著者は紹介している。
村岡花子はマリラを、子供の物語によく出てくる「主人公をいじめるこわいおばあさん」のままにしておきたかった。つまり「フラット」な人物にしておきたかった。だからマリラが最後に「いいひと」になってもらっては困るのだった。それで最後の告白をカットしたと著者は推測する。
一方で原作ではマリラはアンと接するうちに人間的にだんだんと変化していくラウンドな人物であった。
つまり日本語で読む「赤毛のアン」は、アンの成長物語であるのに対し、原典の「Anne of Green Gables」は、アンと接することで「マリラが精神的に大きく成長する物語」であると著者は結論付ける。
村岡花子のしたことは翻訳者としては行き過ぎであったと私は思う。しかしマリラが頑固なままであったからこそ、日本でこれだけ「赤毛のアン」が読まれてきたともいえる。原文を忠実に訳した方がよかったのかどうか、判断が難しいところだ。
赤毛のアンを原書で読んで
★★★★★
赤毛のアンを原書で読んでいて、あれ、翻訳では気が付かなかったこと、翻訳と違う印象を持ったところが何箇所かありました。
WEBに掲載されている無料の朗読をパソコンで再生しながら、WEBに掲載されている無料の文章を見ていました。
最初の3章のタイトルが、レイチェルが驚いた、マシューが驚いた、マリラが驚いたと、韻を踏んでいることに気がつきました。
翻訳でも努力しているが、日本語で読んでいると気が付かない部分と、本書が指摘しているような翻訳されていない部分とがありました。
残念なのは、本書がすべての赤毛のアンの朗読で気が付いた部分を掲載するのではなく、他の文学の翻訳されていない部分に横展開している点です。
個人的には、赤毛のアンをもっと深く総ざらえして欲しかったかもしれません。
ps.
赤毛のアンの前半は、講談社の文庫になっている赤毛のアンを使っていました。
理由としては、小さくて、文字が見やすいためです。
後半は続として出版されたのに、なぜか絶版になっています。
復刊ドットコムに登録しました。再販を期待しています。
赤毛のアンにひかれて
★★★★☆
「赤毛のアン」がタイトルに含まれているのに興味をそそられて、読んでみた。
私は、子どもの頃以来、少なくとも5回は「赤毛のアン」を読んだが、当初はアンに感情移入しながら読んでいたのが、いつしかマリラの気持ちが良く理解できるようになり、一番好きな登場人物になった。本書は、そのマリラの変化成長を取り上げていて、そのとらえ方に共感できる。
また、英文学では、登場人物がその物語の中で、精神的に変化成長していく「自己発見のパターン」があると言う。
これが、私が英文学好きである理由ではないかと思った。
さらに、「高慢と偏見」では、語り手と視点、「大いなる遺産」では、視点の変化・転換、そして「ジェイン・エア」では、映画化の工夫を対比させて、筋立てをどう解釈するかなどの問題を、平易に解説していて、おもしろかった。
読みながら、自分なりの考えも浮かんできて、本当に講義を受けているようだった。
村岡花子はなぜ「マリラの告白」をカットしたのか
★★★★★
本書の4章と5章では、原文と日本語訳から「赤毛のアン」を比較考察している。
原文では37章のマシュウの死後、マリラはアンに、今までつらくあたってきたが本当はマシュウと同じくらいアンのことを愛していたのだと、心の中を素直に告白している。しかし新潮文庫でおなじみの村岡花子の翻訳ではこの部分はカットされている。なぜこのようなことがおこったのだろうか。
E.M.フォースターは「小説の諸相」の中で、小説の登場人物をただひとつの性質である「フラット」と、性格づけが一元的でなく発展性のある「ラウンド」という二つに分類していると著者は紹介している。
村岡花子はマリラを、子供の物語によく出てくる「主人公をいじめるこわいおばあさん」のままにしておきたかった。つまり「フラット」な人物にしておきたかった。だからマリラが最後に「いいひと」になってもらっては困るのだった。それで最後の告白をカットしたと著者は推測する。
一方で原作ではマリラはアンと接するうちに人間的にだんだんと変化していくラウンドな人物であった。
つまり日本語で読む「赤毛のアン」は、アンの成長物語であるのに対し、原典の「Anne of Green Gables」は、アンと接することで「マリラが精神的に大きく成長する物語」であると著者は結論付ける。
村岡花子のしたことは翻訳者としては行き過ぎであったと私は思う。しかしマリラが頑固なままであったからこそ、日本でこれだけ「赤毛のアン」が読まれてきたともいえる。原文を忠実に訳した方がよかったのかどうか、判断が難しいところだ。
赤毛のアンを原書で読んで
★★★★★
赤毛のアンを原書で読んでいて、あれ、翻訳では気が付かなかったこと、翻訳と違う印象を持ったところが何箇所かありました。
WEBに掲載されている無料の朗読をパソコンで再生しながら、WEBに掲載されている無料の文章を見ていました。
最初の3章のタイトルが、レイチェルが驚いた、マシューが驚いた、マリラが驚いたと、韻を踏んでいることに気がつきました。
翻訳でも努力しているが、日本語で読んでいると気が付かない部分と、本書が指摘しているような翻訳されていない部分とがありました。
残念なのは、本書がすべての赤毛のアンの朗読で気が付いた部分を掲載するのではなく、他の文学の翻訳されていない部分に横展開している点です。
個人的には、赤毛のアンをもっと深く総ざらえして欲しかったかもしれません。
ps.
赤毛のアンの前半は、講談社の文庫になっている赤毛のアンを使っていました。
理由としては、小さくて、文字が見やすいためです。
後半は続として出版されたのに、なぜか絶版になっています。
復刊ドットコムに登録しました。再販を期待しています。