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啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

価格: ¥1,323
カテゴリ: 文庫
ブランド: 岩波書店
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読む必要はないでしょう  ★★☆☆☆
だいたい、アドルノという人は意図的に難しい文章を書く人であって、もしこの本について知りたいなら概説書を読めばいい。こんなもの真面目に読んだらバカを見る。アドルノやその追随者は「アウシュヴィッツ」をやたら重視するが(アドルノに限らないが)、なんでポル・ポトやスターリンではないのか。要するに西欧でそんなことが起こるなんて信じられないという西欧中心主義なのである。啓蒙されたのち野蛮になるのではなくて、人間の一部は何を教えられたって野蛮なのであって、そこには弁証法なんてものはない。弁証法なるものはヘーゲル歴史哲学というインチキと不即不離であって、歴史法則主義が成り立たないことはポパーの言う通り。それに、ヒトラー以後、西欧ではアウシュヴィッツ的事態は起きていない。フランクフルト学派は母国ドイツだからやたら気にするわけだが、そこが彼らの限界でもある。もっともこの本はまだ何を言っているか分かるからいいが『否定弁証法』となると何を言っているのか分からないから困る。分からないのはあなたが悪いんじゃなくてアドルノが悪いのである。
図式に収めきれない余白を構想する ★★★★★
 権力論を語る際によく引用されているこの著書は、ここのレビューでひどく評価されていたためになかなか手が伸びづらかったが、実際に読んでみるとそんな予断とはかかわりのない読み応えがあった。

 全体は六つの章に分かれ、それぞれ「啓蒙の概念」「補論1 オデュッセウスあるいは神話と啓蒙」「補論2 ジュリエットあるいは啓蒙と道徳」「文化産業ー大衆欺瞞としての啓蒙」「「反ユダヤ主義の諸要素ー啓蒙の限界」「手記と草案」と題してある。ここで挙げられている例はその題を見ればわかるように多岐にわたっているが、一貫して追究しているのは、自分たちは何でも見渡せて何でも解っていて、生きてることに満足できて幸せだと思いこませようとする数々の啓蒙の図式の仕組みとはたらき、その各人への効き目を明らかにすること、しかし、そんなどの図式のどれにも収まらない余白、余剰、ずれが人間の生そのものにあることを啓蒙の思考作用や芸術が示せることを明らかにすることだ。その目的は全体主義に対するオルタナティヴを構想することでもあっただろうが、その意味で、この著書は一見否定的で閉じているように見えながら、さまざまな図式が先取りする網羅的世界観や体系の外部を志向していて、多くのいわゆる体系的書物の多くよりよっぽど開かれている。事実、ここで語られていることを基にした思想書は数々あるし、否定的なことを言いながらも、著者の視線は触れられずにまだ残されている人間の領域・世界の領域に注がれていて、そこには希望が示され、決して人にそっぽを向いているわけではない。

 また、戦時中の著者の立場を云々する意見もあるだろうが思想家とは本来そういうもので、例えば偉大な思想家のヘーゲルも戦時にはたやすく国家との一体化を図ったり、旧友が反政府活動をしたときには大学教授の地位を守るために助けの手を差し伸べなかったということもあったのだから、その行動を云々して著書を批判するのはどうかと思う。

 柄谷行人の言う「外部」とはこの著書で示されている領域をさすのかな、とも思った。読んでいくと、自分が読んだ中で考えても、そのテーマと展開はフーコーの「監獄の誕生」「言葉と物」と共鳴しているし、「オデュッセイア」読解はルカーチ「小説の理論」、反ユダヤ主義の章はハンナ・アレント「全体主義の起原」第一巻の内容と響き合い、末は浅田彰「構造と力」の議論まで連想するといった風に、ここにこめられた問題意識は非常に広範で深い。そんなふうに触れられる論点が非常に多いので、訳はそんなに読みづらくはないが、腑分けして読むのに苦労するかもしれない。何回も読んでみるといろんなヒントが読み取れそうな一冊。必ずしも否定的なだけの内容ではないし、暗いだけでもないよ。
達意の名訳。 ★★★★☆
 本書の著者たちを長年、研究している者です。内容に賛否両論あるようですが、まず叙述の仕方のユニークさを楽しんでもらいたい。
 まず、本書の副題にご注目ください。哲学的断章とあります。それは、当初考えられていた体系的で「総体」を論じる思考は、もはや放棄されたことの印といえます。その代わり、様々な角度から歴史、文化、社会の変動を縦横に論じ、またその底流にある西欧の目的合理的主体の、非合理的なものとの共犯関係が指摘されています。そして本来はこの書に続いてこの時代を乗り越える希望について書かれる予定でした。ですから文明史を「負の目的論」として描こうとした、というのは一面的な理解です。また科学技術と論理実証主義とを同一視していたわけでもありません。『アドルノ社会学講義』をお読みになればわかることですが、アドルノは「技術そのものは中立で、悪しき目的にも、良き目的にも応用される」と考えていました。ただ、歴史的制約は否めません。しかし、それはどんな古典にもつきものです。例えば、現代の生命倫理などで強調される、判断力を持つ成人の「自己決定」は、その範疇にぞくさないもの、排除されているものと何の関係もないといえるでしょうか?
逆説が逆説でないという逆説 ★★★★★
「人類は文明化するほど、新たな野蛮に落ち込む」
ホルクハイマーとアドルノはこの逆説について思考する
彼らにより、この逆説が実は逆説でないことが示される
逆説が逆説でないことが、本書における最大の逆説である
素直に読めばいいだけの話 ★★★★★
言わずもがなの古典的名著。んで、その翻訳。
長らく日本語訳がなく、やっとこ、それが出て、
なんと文庫本で読める時代になった。
ナチの時代に直面し、「なんで、こうなった?」ということを、
現在の状況からでは想像できないほど、死ぬほど考えてできた著作です。

まずですね。超難しいです。そもそも原著のドイツ語が晦渋を極める。
よって、その翻訳もまた晦渋を極める。内容を本気で理解するのであれば
しっかりした人に講義をしてもらって読むべし。

単独で読んで、難しいとか、読む必要がない、とか言う人は
単純に勉強が足らんだけですわ。一種の散文なので、裏の意味とか、
背景がわからないと当然わかりません。

某先生の講義で輪読したことがありますが、そのあたりの解説も頂けて、
非常によくわかりました。アドルノが死ぬほど考えて書いた著作を
ストレートに読んで、すんなり全部わかるわけないでしょ。

まずは、格闘する文献。書いてる人が、そうなんだから、そう読む本。