私が理解する限りにおいて、ごく簡単に本書の内容を述べておこう。「パタン・ランゲージ」とは、建物の各部分、そしてそこで暮らす人々の生活における個々の行為のあり方を指して「パタン」や「ランゲージ」と呼んでいる。
その「あり方」には良いのもダメなのもあって、例えば「街並みを見下ろすテラス」というパタンがある。あきらかにこのパタンを用いれば良い場合はこれを用いるべきであって、逆にそれが必要とされるのに無かったり、パタンに反するような状態で施工されている場合は生き生きとした建物にならないということになる。各パタンは絶対的なものではなく、どのパタンを選ぶのかは建物の目的や環境によって異なる。そして良い「パタン・ランゲージ」の累積によって、生き生きとした建物や街並み、都市は作られていく。
アレグザンダーは、町には町、建物には建物の「本質」が存在すると考える。そしてこれらの本質の究極には「無名の質」なるものが存在する。その「無名の質」を目指すことによって「生き生きとした」町や建物は作られていく。
「無名の質」に至るために、人々は社会的な通念などのしがらみに縛られずにありのままの自分を出すことによって、誰に学ばずともランゲージを行使できる。つまり「パタン・ランゲージ」は、それ自体は絶対的なものではなくて「無名の質」に至るための手段に過ぎないのである。
この論理展開はかなり苦しい。存在論を基盤に置いてスタートしているというよりも、「パタン・ランゲージ」を正当化するために楽観的な存在論を担保にしているとしか思えないようなところがある。
もしアレグザンダーが「パタン・ランゲージ」で示した以外の施工方法や趣向が提起された場合、それに対して「そんなことでは無名の質に至らない」などの宗教めいた反論をするような信者を作りかねない怖さがある。
本書そのものは爆弾を抱えながら論理展開を進めているような気がしてならないが、アレグザンダーは『オレゴン大学の実験』や『まちづくりの新しい理論』では非常に興味深い方法論の提起と実践を行なっているので、初学者はそちらの方から読んだ方が良いと思う。
著者はこの本のなかで、町づくりや建物づくりの根底にある基本的な特性について解説している。つまり、町づくりをおこなう住民たち全員が分かち合う共通のパタンランゲージ(共通言語)をもち、しかもその共通言語が生命を持たないかぎり、生き生きとした町や建物は生まれないと述べている。