1974年に書かれた名著である。
★★★★★
1974年に書かれた名著である。
自動車が社会に及ぼす様々な影響について、経済学的に分析し、その対応策について提言しているものであるが、今この時代でさえも本書のもつ説得力は色あせてはいない。
それは、人々が自動車を使用するときは、単に自動車購入のための支払いやガソリン代などという私的な資源の利用に対する代価だけでは済まされない問題、すなわち「道路」という人々が生活していくために欠くことのできない都市環境の最も重要な構成要因である社会的資源の使用を媒介して一般市民の生活に大きな影響を与えているという視点である。
今、この国においては景気対策と称して、自動車購入に減税や補助金など様々なインセンティブを与えている。
この点についても、既に「自動車が資本主義的な経済制度に組み込まれたとき、生産面についても消費面についてもその範囲が加速度的に拡大されていって、経済循環のプロセスにおいても社会的な生活という点からも切り離すことのできないものになりつつある。自動車は、まさに生物体に侵入したガン細胞のように経済社会の中で拡大していった。」とこの時代に指摘しているのは、驚くほかない。
本書の書かれた時から、30年以上経過した現在でもなお、歩道のない生活道路でさえも、わがもの顔で通過する車や、歩行者のほとんどいない地方都市の横断歩道を渡る歩行者を無視した車など、危険を感じる場面は数多い。
いまさらながら、ここまで車を優遇する社会になってしまったことに、愕然とする。
単純に、暫定税率はその目的を達したから廃止だとか、環境税だとか言う前に、車のもたらす利便性と危険性、さらには都市構造までも破壊し公共交通機関をも消し去ってしまう現実に、そのあり方を根本から考え直す時期ではないかと考えさせられた。
自動車は個人に必要不可欠な乗り物か
★★★★☆
東京から引っ越して、今は都心から特急で一時間半ほどの地方都市に住んでいますが、ここへ来てから車はおろか、免許すら持っていないことに心底驚かれることに驚きました。どこでも「車がなくてさぞ不便でしょう?」と聞かれます。こちらでは電車やバス網は発達しておらず、買い物は郊外の大型ショッピングセンターへ、細い道路も車がびゅんびゅんと飛ばしていき、一時停止線はあまり利用されていないようです。
それはつまり、車を使用することを前提とした街づくりが行われていることを意味しています。主要都市のように電車やバス網が張り巡らされていないから当然だ、アメリカなどはもっと車社会だ、と片付けることは簡単ですが、車を利用することを前提とするコミュニティというのは本当に社会にとって有益なのか、日本においてそのタイプの生活は本当に好ましいものなのか、身近なものだけに車を社会的費用として再考することが必要なのではないでしょうか。
自分が生まれる前に初版が発行されていた本ですが、十分に新しい内容でした。
「社会的共通資本」のあり方を深部から再考する!
★★★★★
日本が高度経済成長を遂げた1970年代、大企業批判が展開され、経済成長至上主義の負の側面として環境・公害問題が大きくクローズアップされるようになった。1974年に刊行された本書はそうした時代的風潮に先駆ける形で登場し、先進諸国の発展を支えてきた自動車がもたらすさまざまな社会的費用とともに、社会的共通資本のあり方を真摯に模索した意欲作である。著者である宇沢弘文氏は、近代経済学(新古典派理論)の発展に大きな貢献をなした学者であるが、本書ではその著者自らが、新古典派理論によって自動車の社会的費用の問題を明らかにすることには限界があることを強調しており、そのことがかえって宇沢氏の深刻な問題意識を浮かび上がらせている(自己批判の発露かもしれない)。自動車の飛躍的普及がもたらす諸問題を丹念に解説し、それを経済学的なフレームワークを通じて客観的に分析するスタンスはきわめて説得的である。自動車の普及を生物体に侵入したガン細胞であるとみなし、それはガン治療よりもはるかに困難であるという。なぜならば、「自動車は経済社会のなかで有用なはたらきをしている側面があって、有害な面だけを切り離すことが不可能に近いからであり、また生物体とは異なって、経済社会を構成する個々の細胞は人間だからである」(30頁)。労働を生み出す生産要素としてのみ人間を理解する新古典派理論が、こうした問題に不十分にしか対応し得ないのは自明なのだ。「社会的費用の発生をみるような経済活動自体、市民の基本的権利を侵害するものであるという点から、許してはならないのである」(175頁)という主張を噛み締めつつ、人間にとって暮らしやすい安定的な経済社会のあり方とその実現に向けて、自分なりに考え続けてみたい。それはいかなる経済学がこれからの時代に要請されているのかを問い直すこととも密接に関連する。本書の問題意識は輝きを増しているに違いない。
古典です
★★★★★
自動車とは確かに快適で便利である半面、自動車の排気による
環境破壊、交通事故による死傷者数の多さという面もある。著者は
新古典派の人間的側面を忘却してきた思考様式、つまり命などを
金銭として算出して社会的費用化することで自動車社会の問題を
解決しようとする思考である。しかしそれに著者は賛同しない。
新古典派と思想的決別を宣し、自動車の社会的費用を、その思考様式とは
別のやり方でいかに内部化するかを探求し、あるべき住みよい社会とは何かを
著者は示唆する。
最近の新書になく、30年前の新書にあるもの、それがこういった
社会哲学力ある本である。真摯に問い詰める。この姿勢をもった新書である。
自動車社会であることの異常さを認識するためにも非常に今日的意味をもつ一冊。
まさに一読の価値あり。
新古典派の批判、外部不経済への刮目、このあとどうなったのか!?
★★★★★
~71年にかかれたこの本の内容が、今なお説得力を持つ(!)とはなんてことだろう。
自動車がもたらす外部不経済を社会的にきちっと位置づけようとする理論は鮮やかだ。今でもロードプライシングの理論「なぜ道路を有料にすべきか」を説明できる理論として生きている、と思う。
~~
また、私的資本に働くマーケットメカニズムがもたらす均衡と、道路などの「社会的共通資本」における均衡(最適化)の違いをわかりやすく説明し、後者には社会的コンセンサスが不可欠である、という点について、イデオロギーでなく経済学の立場からきちんと説明してくれているのがいい。
~~
それにもまして、「新古典派理論が制度的制約条件をはじめから(積極的に)捨象し、パレート最適という効率性基準によって評価している」と批判し公害や環境問題など、外部不経済であるばかりか、不可逆的な問題を引き起こす理論的限界を露呈したと述べる、宇沢先生の信念に感嘆する。
~~
付け加えるなら、宇沢先生は、この当時アメリカの道路整備財源について、おそらく最先端の知識を持っておられたと思うが、本書に日本のその部分についての本質的な問題点についての記述がないのが残念。もしその後書かれていたら是非読みたいと思う。~