アンツルさんの芸と芸人への熱い思いが込められた傑作。
★★★★★
直木賞受賞作の本書を文庫での復刊を機に初めて読んだ。読後、なんとも言えない、
暖かな気持に包まれた。それはアンツルさんが本書に込めた思いを感じたからであるし、
登場人物がそろって真っ正直で熱い血の通った人たちだからだろう。
舞台は都内唯一の講談定席だった本牧亭だが、主役は特定の一人ではない。席亭おひで
さんであり、”真つ四角”な講釈師の桃川燕雄であり、燕雄の不遇時代を支えた川崎福松
でもある。もちろん、東横落語会を主宰した湯浅喜久治の短いながらも劇的な人生も本書
の重要な要素であるし、彼が淡い思いを抱き続けた女義太夫の桃枝は、この物語に程良い
色気を与えてくれている。そして、本牧亭という舞台を中心に登場する有名無名合わせた
芸人全員が主役の一人ともいえる。もちろん著者アンツルさんが投影された近藤亀雄も
不可欠なバイプレーヤーであり狂言回しとして重要な役割を果たしている。
昭和30年代後半、急速に都会化する東京と対照的な芸人の世界。漫才の流行に押されて
いく落語、それ以上に深刻な講談の世界。芸能評論家として、当事者の一人として、愛して
やまない古き良き芸能を過去のものにさせたくはないという責任感が書かせた本だろうと
思う。それは、あとがきを「いちど、本牧亭にもお出掛けください。」と締めくくっている
ことが如実に物語っている。
歯に衣着せぬ物言いで敵も多かったようだが、本書には、本来アンツルさんの心の奥底に
ある古き良き芸と芸人達への尊敬と思いやりが充満しているように思う。
落語、演芸関連本の復刊で健闘している河出文庫にはますます期待したい。