詩情あふれる一編
★★★☆☆
著者自身の生活を語りながら、「生活」や「ひととひとびと」について描いたエセー。一般人から見るとかなり特殊な著者の生活(個人塾経営と哲学研究)は、生活範囲も限られているし、一般の人にとっては、自分たちの生活にある多くのことがそこには無いような気もするのだが、一方では、みんな、こんな生活が出来たらしあわせではないか、と羨望もあると思う。尤も、どんな人でも、本書を読むと、著者が非常に優秀なだけでなく、意志が強く、人徳があって、つまり「できた人」であること、まねをしようと思っても簡単ではないことは明らかだと思う。自分が本書を読んで思ったのは、著者の生活の「リズム」に対する感覚、ゆっくりだが、リズムを乱さないように心がけていく「リズム感覚」は素晴らしいということだ。勿論、日夜ハードワークしている勤め人では、セルフコントロールできる範囲も限られてくるし、「リズム感覚」といわれても限度があるような気もするが、逆に、著者のように、明らかに生計を立てていく手段としては簡単ではない職業を選び四人のお子さんを育てていくことは、勤め人の比ではないリスクと不安感があったはずで、にも拘らず、自分のリズムを纏めていったことは、驚嘆すべきことだと思う。「合宿」を通じて著者の理想とする社会像はよく分かるし、学生運動世代の「思うところ」も良く分かるが、そこは世代的な特殊なものだと思う。書きにくいとは思うが、生活苦の中でどうやって自分の研究を続けたか、とか、学問論のようなことをもう少し聴きたかった。全編詩情あふれる語り口は、ともすれば嫌味になってしまう本シリーズの企画を救出していると思う。
日々の生活から哲学すること
★★★★★
岩波書店から新しく出された双書「哲学塾」の1冊で、(多分自宅の近所の公民館あたりで開催した)講演会スタイルの文章に適宜聴衆との質疑応答が付いており、臨場感があってすらすらと読める。著者長谷川氏は、40年前の全共闘運動で1年間のバリケート生活ののち大学の研究室を離れ、一人で哲学研究やヘーゲルの翻訳を続けるかたわら所沢の自宅で学習塾を経営してきた。このような経歴の著者にこそ相応しい「生活を哲学する」の標題で、日々の生活を踏まえて哲学することの意義を考察したものである。
話は全て著者の生活体験に関っており、興味深い。郷里出雲での子供時代の話は、家族や地域共同体の原型に及ぶ。大学時代の安保闘争からは、吉本隆明や谷川雁の「知識人と大衆のあり方」「大衆の原像」についての触れ、博士課程時代の全共闘のバリケード生活には対等で自由な討論があったと振り返る。所沢での家庭生活では、父親のフルタイムでの4人の子育てから多くのことを学んだこと、学習塾では、29年続いている11日間の夏合宿における参加者の自主運営とそこでの成長振りが語られる。
最終章では現代人の生き方について触れる。これまでの共同体(家族・地域)の崩壊と個人は自由になった分それだけ孤独が増えている時代に、「自由と孤独と共同性」の調和を求ながら精神的にどう豊かに生きていくか、を課題ととらえる。一人一人の日常の生活にこそ大切なものがあると考える著者は、「自分との向き合いかた、他人とのつながりかた」にかかっていると述べているが、大いに共感した。
身辺雑記から得られる哲学の芽
★★★☆☆
市井の哲学(研究)者として著名な長谷川宏氏の近著。身辺の身近な出来事から、「哲学」を紡ぎだしていこうという試み。ただ、内容的には、第1日のイデア論や第3日の「大衆の原像」「工作者」論はよいとしても、第2日の子育てや第5日の夏合宿をめぐる記述は、残念ながら単なる身辺雑記ないしは随筆のレベルを出ていないように思われる。いずれにせよ、かつて『丸山眞男をどう読むか』において「学問の世界と生活者の日常との距離の大きさに丸山眞男は無自覚だ」(同書209頁)と喝破した著者ならではの著作。また、第6日の末尾近く、近代人は「他人とつながっているからこそ、あるいは、つながりの網の目のどこかに位置を占めるからこそ、自由でありうるし、孤独でありうる」(151頁)との一文は目に新鮮。