鎖国日本の民が故国以外の世界を見ると
★★★★★
江戸幕府による鎖国時代、
大黒屋光太夫らを乗せた船が流され、
10年近くロシアをさまよい日本へ帰国。
そのことを綴った物語。
帰国できたのは光太夫の器の大きさ、
故国への帰還の想いの強さあってのことだと思う。
時代に合わないほどの。
それがやがて光太夫にとっては悲劇となる。
世界史的に見て、鎖国日本の民が
故国以外の世界を見るという視点から見た
内容を細かく書いている。
今となれば、様々なことが言えるが、
当時の帝政ロシアと鎖国中の江戸幕府の日本。
良し悪しではなく、その状況下で、
その時代の人達がどう行動したかが
淡々と綴られている。
これぞ長駆小説の決定版
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この作家の小説には長駆小説という分野がある。主人公が図らずも、遠大な行程を移動する物語である。例えば「蒼き狼」とか「敦煌」とか、また遺作の「孔子」もそうかもしれない。そういう意味で、この小説はその分野の決定版であるといえる。
まず、その長駆に確固たる意思がある。決して放浪でも転戦でもない。その意思というのは、主人公の大黒屋光太夫の、ただひたすら生国に帰還せんがためである。そして逆説的に光太夫は(母国や家族を)思うまじ、考えまじ、と努めるのであるが、その不屈の精神ゆえに、かれは多くの同胞を失った後も生き残り、帰還を果す。同じく生き残った磯吉と共通するのは、前述の強い意志とともに、その置かれた環境に馴染み、溶け込むということである。
次に、長駆する過程の詳細な描写がある。そもそも序章で、漂流日本人とロシアの歴史を長々と解説されているように、これはただ虚構としての伊勢漂流民の物語に留まらず、むしろ記録小説的な色彩が強い。それは主人公の光太夫の詳細且つ的確な記録のお陰でもあるが、それを作者が淡々と、なんの企図もなく書き上げているところがすごい。とかく感動させよう、泣かせようなどと、クドクドと書き立てる小説が目立つ昨今、これは誠にすばらしい。しかしそうは言っても、僕がおおいに落涙した箇所が二つある。それは徳間書店文庫本の281ページ、ペテルブルグ郊外の娼家で、娼婦が歌う場面と、同326ページ、光太夫が庄蔵に暇乞いする場面である。これは人間ならば誰しも泣かずにはおけまい。
とにかくこれは、この作者の作品の中でも、最高傑作といっても過言ではあるまい。カミュの「ペスト」のリウーのような不屈の精神と達成後の「宴の後」現象。これはすごい作品です。
江戸時代の漂流記は面白い
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本書の様な江戸時代の漂流記は実に面白い。
当時の厳しい鎖国社会を背景にして漂流者達の異文化との遭遇が驚きに満ちたものであろう事は想像に難くないし、
極寒の地で地球半周の距離を往復するという行程の中で漂流者達が次々と脱落していくのも壮絶である。
それにしても私が最も関心したのは、当時のロシアの東方進出にかける凄まじいエネルギー。
その間日本はのんびり眠っていたと言って良い状態であり、
この時期に樺太、千島を真剣に開発しておいたらその後はどうなっていただろうか?
余談ながら、江戸時代の漂流ものとしては、吉村昭著「漂流」もお薦めです。
人間の絶対的な孤独
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大黒屋光太夫を主役に据えた時代小説。
彼と部下16名の漂流は無論史実であるものの、本書は記録小説ではなく、
井上靖作品らしいテーマをもって描かれた、人間ドラマと言っていい。
井上作品には、強烈な「生きるよすが」を持っている人物が数多く登場するが、
本作における光太夫もまさにそういった人物として描かれている。
その「よすが」は言うまでもなく「生きて故国の土を踏む」という一点。
酷寒の大地の上で、彼は決然とその日を信じて、前を向いて生きてゆく。
しかし本作における主人公は光太夫だけでなく、おそらく漂流民16人全員だろう。
帰国する者、ロシアに残る者、そして死んでいった仲間たち。
はじめ想いを一つにしていたはずの彼らも、いずれ運命はそれぞれの方向を向き、
別々の道へ向かって行かざるを得ない。
”人間はそれぞれ独立した存在であり、心も体も、絶対的に孤独なものなのだ”
交錯する彼らの運命から、井上氏はそれを伝えたかったに違いない。
そして10数年の流浪の末に光太夫がたどり着いた場所で見たもの。
人の心の置き場とは一体どこにあるのか?
すべてが一酔の夢であったかのような彼の人生が、読者の胸に余韻を広げる。
人間性への希望と虚無感と
★★★★☆
天明2年(1782年)12月、伊勢の白子の浦を江戸へ向かって出た貨物船神昌丸は、嵐にあって漂流し、八ヶ月に渡って海上を漂ったのち、アリューシャン列島に漂着した。船長大黒屋光太夫以下16名の船員たちは、日本に戻るべく必死の努力を重ねるが、年月は過ぎ、ロシアの厳しい冬に一人ひとりと倒れていく・・・。数奇な運命をたどった日本人の実話に基づく冒険譚。
人の感情は根っこの部分で共通すればこそ、女帝エカチェリーナが光太夫の数奇な運命を聞き「ベドニャシカ(可哀相なこと)」と言い、読者もまた光太夫に共感できるのではないでしょうか? 100%善意から出たのではないにしても、漂流民の身柄を守り、日本に送り還す労を取るロシアの人びとの暖かさは、太古から脈々と人間性、というものが生きつづけてきた証しではないか、そんな希望を持ちました。
一方で、帰国する、という目標に彼らを駆りたてたものは何だったのか? 残ったものと、帰ったものと、それぞれの人生の意味は何だったのだろう、と生の虚無感にとらわれます。結局、与えられた条件の中で、最大限自分のやりたいように生を組み立てる、それ以上でもそれ以下でもないのではないか、そんなことを考えさせられました。
惜しむらくは当時の日本のシステムや人びとの生活に現代的な視点から疑義をはさんでいること。西欧中心主義の影が見え隠れします。江戸の人も与えられた条件をもとに考えて結論を導き出しているのにすぎないわけで、そのプロセスはロシアの人と変わるところはない。当時の彼らのプライオリティは何だったのか。幕府の考えかた、やりかたをそうした面から評価せずに、一方的に批判するにとどまっているのがやや残念でした。
人がいなければ歴史は存在しない、そんな当たり前のことを再認識させてくれる本。堅苦しいことを抜きにしても、単なる冒険譚として非常に面白いです。