「ポストモダン」ではない必読書
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題名とか雰囲気から、「ポストモダン」の「作者の死」とかの本と勘違いされそうだが、これはそうではなくて文学作品の構造についての必読書、基本書である。特に、語り手の問題‐一人称か三人称かという区別はさして重要ではなく、「視点人物」が重要なのだとしたことは、従来気づかれていたことではあるが明快に述べたものとして革命的であり、特に日本では、私小説を一人称小説と呼ぶ間違いがあり、「私は」とするのが私小説だという、実情に即せばすぐ間違いだと分かる議論が通用しているので、日本近代文学の研究者なども、絶対に読むべきものである。これと並立するのがウェイン・ブースの『フィクションの修辞学』である。フィクションの修辞学 (叢書 記号学的実践)
ナラトロジーの基本書なのに、書評がなく、驚いた。
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プルーストの『失われた時を求めて』というかなり特異な小説をネタに、そこから普遍的な語りの体系問題へ突っ込んでいった名著。大学などで文芸論をやる人間は読んでいて当然の本。逆に、この書も知らずに、現代の文芸論など成り立たない。それまでの物語論が物語の内容構成を問題にしていたのに対し、この本は言語行為としての語りに注目し、それゆえ、ここにナラトロジーという分野が成立してきた。
とはいえ、この訳書は、かなり問題がある。フランス語の原書を持った上ででないと、かえって理解が難しい。キーワードは、イストワル、レシ、ナラシオンの3つにすぎないのに、訳書では、レシを「物語」と訳したり、「物語言説」と訳したり。そのくせ、ディスクールの訳語にも「言説」を使っている。だいたい「言説」ってなんだよ?「開陳」並みに変な和製漢語だ。全部、カタカナのままの方がよかったくらいだ。
また、ナラトロジーは、この本で始まっただけで、完成したわけではない。人称や時制の問題などは、多用な言語の実際の知見を含め、その後に大いに研究が進んでいる。なんにしても、いわゆる言語学的な文法を超えていく、世界共通のナラシオン(語り)に関する研究の試みであり、多くの可能性を秘めている。なお、この本以前のナラトロジーの前史を学ぶには、文庫クセジュの『物語論』が簡便にだろう。また、ロシア・フランス系のナラトロジーとは全く別の系列として、映画や小説のためのナラトロジーも存在することを知っておくとよい。