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読者はどこにいるのか--書物の中の私たち (河出ブックス)

価格: ¥1,260
カテゴリ: 単行本(ソフトカバー)
ブランド: 河出書房新社
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もう本書を読まずに小説は語れない ★★★★★
 まだ多くの大学に「文学部」が健在だった頃、ランクの高い教室なら必ず使用した教科書にT・イーグルトンの『文学とはなにか』があった。これは剣呑なテキストで、自分で述べたことを直ぐ後から打ち消しにかかり、最後には文学がさっぱり判らなくなるといった効能を誇っていた。これを解説すると称した大橋洋一の本もますます混乱を深めるばかりだったし、内容も判らずに茶化しにかかる筒井康隆には泣かされた。
 今回本書を一読して、これまでの混乱が雲散霧消したような爽快な気分を味わった。そういうことだったのか、どうしてこれまでの文学者は小難しい言い回ししか出来なかったのだろう。
 本書を読めば−小書だから全てとはいえないが−文学理論、文学史、それに現在の文学が抱えている問題のほとんどが判る。易しいが学問の水準は保っていて、レヴィ=ストロース、バルト、フーコー、ヒリス・ミラー等々、文学を学ぶのに避けて通ることの出来ない著名な理論家の言質も至る所に散りばめられているし、その引用元を直ぐ後の本文中に確かめられるのも嬉しい。文学理論といっても本書はあくまでも読者の立場から論じている。この本が出た以上、小説好きならこれを読まずにもう小説を語れないだろう。
 近代読者は「内面の共同体」を形成しつつ読書行為を行ってきたと著者は言う。これがこの本を貫く主題となっている。「内面の共同体」とはベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』からのヒントだが、読書する人々の「あの人も自分と同じように読んでいるだろう」と感じながら「自分は違う読み方が出来る」とも感じる感覚を指し、その誤解・錯覚が「国民国家」形成の一つの要因になったと説く。その一方で「内面の共同体」は「想像の共同体」のような「共感」を強制されず、国民国家の枠組みや歴史を越えた「共同体」を形成することが出来るという。つまり「想像の共同体」は「内面の共同体」の一部に過ぎないと言うことになるか。「内面の共同体」を「国民国家の形成」に結びつけると、著者も懸念するようにカルチュラル・スタディーズの政治思考にはまってしまいそうで難しい。私の場合は、批評は「テクスト論」の立場から論じてみたいと念じつつ、読書中につながっていると感じるのは、何故か本の中にはいない肉体を持つ作者である。その多くは故人なので、あの世と「内面の共同体」を形成しているかなとも感じてしまう。具体的な読者としては、読書行為における自分の位置を見つけておきたい。その位置はどこかにあるはずだと思っているが、そういうことを考えるのにも本書は大いに役立つ。
本書は本好きなら一度は通らなければならない道の優れた案内人である。
なるほど現代の文学部でこういったことを考えている先生もいるのか ★★★★★
夏目漱石や芥川龍之介などの近代日本の書を題材に、作者の立ち位置、読者の立ち位置を解説しながら、さらにそこから、近代文学とは自国語による文学であることを説き、自我、構造主義など多くの流れをまとめている。そして、最後は、「容疑者Xの献身」の書評にまで至る。

「研究には研究にしかできない仕事があり、それには敬意を払わなければならないが、問題はその発信の仕方である」という問題認識を持ち、本書のような形でそれを具現化する著者に敬意を表したい。
近代日本文学研究史としても ★★★☆☆
石原氏のように、文学研究について原理論的な思索を展開できる研究者、それも日本文学の研究者というのは希有な存在である。
本書はいわゆるテクスト論の立場によって、「読者」というものについて考察している。

ここでいう読者とは、実際に本を読んでいる生身の人間のことではない。
そうではなくて、「読者」とは小説によってその内部(正確には内部と外部との境目)に用意された、それを読むための「ポジション」、定位置のことだ(これを「内包された読者」という)。
生身の人間は、この「ポジション」に位置を占めることではじめて読者になることができる。

なぜこうした回りくどい考え方をするのか。それは、(テクスト論において)小説を語っているのが作者その人ではなく、「語り手」であることに対応している。
語り手というのは、小説の内部にだけ存在する抽象的な人称=文体のことである。小説がひとすじのまとまりを持つためにどうしても必要な機能、仕掛けであり、やはり生身の人間ではない。
(この「語り手」の措定によって、テクスト論は「作者を読む」という従来の制限から文学研究を解き放つことになった。)

つまるところ、小説とは機能としての「語り手」からポジションとしての「読者」に語られる、それ自体としては空虚な(なにせ発信者も受信者も実在の人間ではないのだから)「語り」のことである。
それゆえ読書行為とは、我々生身の読者がこの「ポジション」に同化する(あるいはそれに失敗する)ことで、あたかも語り手からじかに話を聞いているかのような(疑似)体験をすることなのだ。
本がそこにあるだけでは、小説は存在しない。本があって、そしてそれを開く人間がいるとき、そこに「小説という出来事」が起こるのである。
このポジションに上手く同化すること、つまり「小説」という制度にうまく順応する(させられる)ようなあり方のことを、本書は「内面の共同体」と呼んでいる。

それは良く言えば読書行為を成り立たせるための基盤だし、悪くいえば読書行為を支配する規制でもある。
いずれにせよ言語が他者との関わりにおいて生じる以上、たとえ読書(黙読)という孤独な行為であっても、そこには何らかの共同体意識が作用するのである。

こうした読者論を通じて、小説の読みはどのようなものになるのか。またどのようなものであるべきか。
具体的な議論は本書を参照されたい。