あまり感心しない
★★☆☆☆
韓国人の具体的な発言や行動の背後にある思考様式を解きほぐし、朱子学的伝統と関連づけながら図式化して体系化することによって、そこに一つの「哲学」を浮かび上がらせる小倉の手際は、冴え渡っていた。NHKのハングル入門講座においてさえ、さまざまな日常的表現がいかなる思想に支えられて成立するかに視聴者の注意を向け、語学番組が言語哲学講座と化す局面さえあったと記憶する。「哲学」が生活の中に受肉し、また生活から養分を得て洗練されていくダイナミズムを示した諸々の仕事に、私は賛嘆の念を抱いて注目してきた。
この延長線上で近年の著者は、近代的主体の理念からポストモダンにおける主体の脱構築にいたる西欧思想の流れの傍らで、儒教的主体の問題を提起している。その志向性は本書の末尾でも確認されている。私としては、小倉の主体論が深まるのを刮目して待ちたいと思う。
あるいは、日中韓を一朝一夕にひとつにまとめてしまえるかのごとき「東アジア共同体」論を退け、かといって「やっぱり脱亜でしょう」に落ち着くのでもなく、「東アジア共異体」なる分かるような分からないような苦しい指針を打ち出すところにも、共感しないわけではない。
でもねー、やっぱりこの本はあんまり感心しない。たぶん角川の新書であることも意識したんだろう、「韓流ブーム」に棹差しちゃった文章を入れ込んだ構成になっているが、うまく行っているとは思えない。韓国が来るべき「東アジア共異体」の中心っていう話も、まあ肉付けはまだまだ……当り前だけど。
あと細かいことだが、一方で「東アジア」なる概念の成立可能性そのものが問題としながら(p169)、他方では日本の「東アジア化」が論じられているのは(p30)、やはり不用意なのではないか。おそらく小倉の念頭にあるのは儒教的主体化ということなのだと推測するが、だとすれば小倉は無意識的にか東アジアを儒教で括ってしまっていることになり、それは小倉自身が「終わりに」で述べた認識(p192)とも齟齬をきたすように思った。
最後から読んでみては
★★★★☆
冒頭あたりに「平易に語ってみたい」と書かれているわりには、えらくとっつきにくい本になってしまっている。最初から普通に読み進めていこうとした人の中には、途中でついていけなくなった人も相当いるのではないだろうか、と想像する。
そんなときには、「終わりに」から読んでみるとよい。書かれていることは、実は本文の見た目ほど突拍子もなくエキセントリックな話ではない(「俗論としての東アジア共同体論」批判)。また、儒教と軸とした韓国哲学を研究する研究者たる小倉紀蔵の本として見れば、他著との議論の一貫性もしっかり確保されている。
ただ、あくまで私の個人的な感想として、この著者は、こうした講演調の文章よりも、詩的なモノローグを書いたほうが魅力的である。
”戦後民主主義”の韓国フリークが膨らませた妄想
★☆☆☆☆
冒頭から理解に苦しむ解説が目白押しである。
10年ほど前のルックコリア(韓国に学べ)現象―そんなのあったの?―がポストモダンの日本を、韓国のようなモダン社会に戻そうという運動だったとか。
国旗国歌法や教育基本法改正は、日本の東アジア化だとか。
盧武鉉と金正日と安倍晋三は、満洲にノスタルジアとルサンチマンを持っている点で共通するとか。
著者は、ヨン様ファンは靖国参拝に反対しているかと期待していたら、逆だったので残念らしい。
韓流を最初から期待を持って見守り、親韓派が増えることを喜び、彼らが朝日新聞的思考を持っていることを期待していたのに、それが裏切られて韓国シンパとしては痛し痒しといった様子である。
著者によると、安倍政権の「普通の国」路線は、日本が北朝鮮と同列になり中国の周縁国家になることを意味するらしい。
だから中国をコントロールするために、実体的ではなく関係性(これもさっぱり判らない言葉だが)として東アジアを構築しなければならないという。
著者はこれを”東アジア共異体”と呼び、その中心は韓国であるべきだと力説するのだが、その理由はほとんど根拠がない。
全体に言葉の扱いが雑というか説明が足りず、いくら一般向けの啓蒙書とはいえ、これでプロの学者なの?という読後感だった。
えらくわかりにくい
★★☆☆☆
東アジアを性善説によって説明しようとしています。
えらくわかりにくいのですが、
「100点なのが当たり前。なのに現実が99点なのは、けしからんではないか」
という考え方と、私は読みました。
その性善説でもって、むりやり東アジアの行動を説明しようとして、一瞬うなずきそうになるものの、なんかうさんくさいな、と思ってしまいます。
こんな考え方もあるのかな、ぐらいに流して読むことにしました。
歴史に基づく知恵は、disengagementを示唆してるのに?
★★★☆☆
タイミングが悪い本ですね。世界金融危機でがたがたになった韓国をテーマとして本を売るにはこのような形でタイトルを付け直すしかなかったんでしょうか。もともとが、「論座」という雑誌にのった論文がベースとなっているそうですが、こんな論文載せてりゃそりゃつぶれますね。特に日本における韓流ブームを扱った論文は、モダン、ポストモダン、プレモダンというターミノロジーを安易に操った奇怪な論文のオンパレードです。しかし第二章、第三章の「性善説」というキーワードをてこに、日本、韓国、中国の三国の歴史と政治文化そして携帯の社会的な機能までを解明した部分は見事な料理さばきです。誤解されやすい、この性善説という言葉の持つ逆説的な危険さとダイナミックさを解明し現実の政治力学の中にその機能を取り上げた部分は一読に値します。しかしながらそこからでてくる規範的な政策論を取り上げた結論部分は、著者がこの性善説とその帰結としての非リアリズムに逆に洗脳されてしまったかのようです。著者自身が指摘しているように、有能で真摯な地域研究者は全て「反」東アジアになり逆の方向での政策論を提示しているという点には、おそらく賢者の歴史への謙虚な姿勢がベースになっているはずです。逆に、この作品はミイラ取りがミイラになってしまう見本です。ところでメタとかベタとかいう言葉が頻繁に使用されていますが、この定義はどこにも出てみませんが、それくらい常識な言葉なのでしょうか?