この本は新田次郎文学の秘録である
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新田次郎は「八甲田山死の彷徨」や「武田信玄」など、その作品の多くが映画やドラマになった昭和を代表する小説家である。この本は、新田次郎の長女藤原咲子氏が満を持して著した新田次郎文学の秘録ともいうべきエッセイであり、身内でなければわからない事実や、父・娘の間柄として厳しくも心暖まるエピソードが全篇を網羅している。特筆すべき内容としては、新田次郎の処女作が何であったかという研究者にとっては大変得がたい資料が今回、日の目を見たことであろう。その作品は、「藤原廣」のペンネームで書かれた『山羊』である。昭和20年8月、当時の満州国観象台(我が国の気象台に当る。)の職員であった新田次郎は、旧ソ連の侵攻に伴い家族と離れ離れになる。トゥマンガン(豆満江)周辺で捕虜生活を送った時に生まれたばかりの娘(著者)の生死を案じたことをテーマにしたのがこの短篇である。新田次郎が終生作品のテーマとした「人間愛」を長女である藤原咲子氏も見事に受け継がれたものだと、母親である藤原テイ氏、次兄である藤原正彦氏の作品を思うとき感慨無量なのは私だけだろうか。