会社倒産と自己破産の後、著者は表舞台から退いて実家に身を寄せ、2匹の犬と近くの川を散歩する平穏な毎日を送っていたという。そこで自身を顧みて、次のような考えに到達したという。「すべてを受け入れることが、すべての始まりである」「何もかも失ってしまえば、おだやかな心をもつことができる」「人は所有を追い求めて選択の幅を失い、所有することによって自由を失う」。本書には、こうした著者の達観したメッセージが多数盛り込まれている。
著者はしかし、そう簡単にすべてに折り合いをつけることができたわけではない。講演活動やマスメディアの取材などで周囲が賑やかになるなかで、「社長失格」のレッテルに束縛を感じたり、自分は何に役立つ人間かに悩んだり、お金や女性との交際の問題で悶々としたりなど、依然として揺れる心の内を明かしている。このみずからを語る率直さには引き込まれるはずだ。
当時はネットバブルが訪れたころで、そのブームへの客観的な評価や、自身がもつビジネスモデル特許のその後、光通信などの新進企業の下での再起など、読みごたえのあるエピソードも多い。なかでも意思決定やリスクのとらえ方に関する考察は大きな示唆を与えてくれる。頂点を極めた人間が挫折を経て老獪ともいえる強さを得たという、スポーツ界などでよく語られるケースを著者にも重ねてしまうが、本書にはそうした奥深さがある。(棚上 勉)
本書のなかで著者は、以前肩をならべていた企業家たちと自分をいまも同格視していて、ハイパーネットが「自分の責任でつぶれた」と口では言っていても、本当は自分の責任で事業が失敗したとは思っていないんだなというのがうかがわれました。最後の前の章で、「失格社長」の「失格」が取れる日まで、というくだりがありますが、前作でも本書のなかであれだけ社長職には向いてないと認識している様子なのに、まだ「社長」をやる気なんだ・・・とおどろきました。またそのすぐ後の最終章では、出会いを大事にしたいということにからめて、自分の犬たちとの時間を描いていますが、その犬たちへの思いとして「僕に飼われたことを幸せに思ってほしい」とあって、このひとはひょっとするとひととの出会いも「他者を自分の下に飼う」ことと思っているのかもしれない、と思えてしまいました。
ただ、前作ではできごとに沿って自分の気持ちをストレートに表現しているという印象をもったのですが、今回の作品ではなんだか背伸びしているような印象でした。現状の自分に満足できなかったり、焦っていたり、以前の同業者に張り合う気持ちがあったりするのは無理ないことなのですが、言われたことの底意が「はじめからお見通しだった」というような言い方になっていたり、繰り返し「起業家の僕」という言い回しを使ったりすることで「社長失格」をむりやりはがして、「有能な自分」というレッテルに張り替えようとしているような、そんな感じをうけました。
どう言おうと著者は非凡すぎるぐらい非凡なひとなので、私のような平凡な者が分析するのはおこがましいですが、自分の表現を大事にするあまり、他人にどう見られるかを忘れてしまいがちな著者の悪い癖が出たな、という気もしました。無理に文学じみた表現をしたり理屈をこねるのはやめて、レッテルを気にせずに書いたほうが魅力があると思います。