独り言風の、レヴュー
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哀れなる哉、イカルスが幾人も来ては落っこちる。(「Kの昇天――或はKの溺死」)
と梶井は書き、
そのうちに或店の軒に吊った、白い小型の看板は突然僕を不安にした。それは自動車のタイアアに翼のある商標を描いたものだった。僕はこの商標に人口の翼を手よりにした古代の希臘人を思い出した。彼は空中に舞い上った揚句、太陽の光に翼を焼かれ、とうとう海中に溺死していた。(「歯車」)
と芥川は書いた(「Kの昇天――或はKの溺死」、「歯車」の引用は、彩流社刊行『自殺ブンガク案内』による)。
一度は「落っこち」たかもしれないが、生まれ変わった「イカルス」がいた。
夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。もう山焼けの火はたばこの吸殻のくらいにしか見えません。よだかはのぼってのぼって行きました。(略)よだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。(「よだかの星」)
「気のいい火山弾」は『聖書』中の、大工たちが役に立たぬと捨てた石、それが隅の土台石になった、という一節を思い起こさせる、ハッピーエンドの話、めでたしめでたし、で、どうやら終わりそうだぞ……と思いきや、さにあらず。
「(前略)私の行くところは、ここのように明るい楽しいところではありません。けれども、私共は、みんな、自分でできることをしなければなりません。さよなら。みなさん。」
さんざん、みんなに、こけにされながらも、「ここ」は「明る」く「楽しいところ」だったと言う「気のいい火山弾」。どんだけ、気がいいのやら。あるいは、人間たちのおもちゃ――研究材料――にされるのに比べたら、「ここ」は「明る」く「楽しいところ」だったのかもしれないが……。
「オツベルと象」は、『少年キム』に登場する逸話〈本生譚(ジャータカ)〉と少し重なるような気がするが、……気のせいか。
作品と作家とを大いにごっちゃにし、それからあらためて作品へ立ち返ると、いっそうその滋味がますという作家もいて、その代表格の一人が疑いもなく宮沢賢治である。(本書巻末/井上ひさし「賢治の祈り」)
井上氏の指摘を踏まえて、眺めてみる。
あのときの出来事は、肥料の入れ様をまちがって教えた農業技師が、オリザの倒れたのをみんな火山局のせいにして、ごまかしていたためだということを読んで、大きな声で一人で笑いました。(「グスコーブドリの伝記」)
という箇所は、あるいは、
天候不順で収穫の少ない秋などには、協会にねじ込む農民もいた。天候不順を、肥料設計のミスにすりかえて、金を払えと仄めかす。(本書巻末/井上ひさし「賢治の祈り」)
という賢治自身の身に起こった出来事の昇華であったかもしれない。