江口聡、「7 遺伝子操作」について
★★★★☆
(要約)この本の中で、京都女子大学助教授の江口聡(倫理学専攻)は、「7 遺伝子操作」を執筆している。江口によれば、遺伝子治療は、大きく二つに分けられる。すなわち、「体細胞系列の遺伝子治療」と「生殖細胞系列の遺伝子治療」である。「体細胞系列の遺伝子治療」とは、「疾病の治療を目的として、遺伝子や標的となる遺伝子を導入した細胞を体内に投与することによって行われる」ものだ。江口は、「体細胞系列の遺伝子治療」の技術的な問題点を次のように指摘している。
「人体や臓器は膨大な数の細胞でできているため、望んだ遺伝子を目標の臓器に正しく送り込み、適切に機能させるのは非常に難しい。また遺伝子を運び込むためにウイルス等を使うため、予期せぬ副作用も起こりうる。」
一方、「生殖細胞系列の遺伝子治療」とは、生殖細胞や胚の段階で遺伝子を操作するタイプだ。
つまり、「体細胞系列の遺伝子操作は疾病を負っている本人に対する処置であるが、 生殖細胞系列の遺伝子操作は本人ではなく新しく生まれてくる子どもに対する処置である。」(本書、p.144)
平成14年に厚生労働省による「遺伝子治療臨終研究に関する指針」が出された。この指針では、 体細胞系列の遺伝子治療について、(1)疾病が重篤であり、(2)遺伝子治療が他の方法より優れていること、などの厳しい諸条件のもとでの実施が許されている。
一方、この指針では、 生殖細胞系列の遺伝子治療は明確に禁じられていた。なぜならば、「生殖細胞系列の操作は、新しく生まれてくる子どもの遺伝的性質を変えようとするものであり、また、その遺伝子はおそらくその子どもの子孫にも伝えられることになる」からだ。
最初は、「治療」から始まる生殖細胞系列の遺伝子操作が、「予防」を目的とするものへと発展し、さらには、「改良」へと進むことに魅力を感じる人も出てくるだろうと江口は予想する。ところで、「…現在議論されている遺伝子治療・改良には、このような過去の優生学とは大きく異なっている点がある。それは人々の選別が、国家の政策によるものではなく、個々人の自発的な選択によってなされるということである 。」(本書、p.157)
功利主義の観点から、このような「改良」の倫理的問題を考察した江口は、結論として、ミルタイプの功利主義者は、少なくとも(1)子どもの自由の保護、(2)子どもの自律性の保護[金森修 2005、255ページ] という大原則を人々が幸福に生きるための基本的要素の一つとして喜んで認めるだろうと述べる。江口は、「どのような遺伝的性質を持っていようが、人々が幸福に生きるためには自由と自律が必要であり、それは遺伝的に何らかな人為的設計が加わったとしても減じられるものでも、減じられるべきものでもない」と結論する。
(私の感想)
デザイナーベイビーに発展する可能性がある「生殖細胞系列の遺伝子治療」には、まず、 技術的な問題がある。すなわち、リスクが高く、現在のところまだまだ危険だということだ。しかし、これは将来的に、「リスクがほとんどない」という判定がされるまでに、技術が進歩する可能性がある。その判定は、関連業界のロビーなど、政治的影響も受けるだろう。
もう一つの技術的問題は、生殖細胞に対する遺伝子操作の積み重ねは、長期的に見ると、塵も積もれば山となるというように、人類という種の遺伝子を大幅に変更することになる可能性があるという点だ。果たしてそれが人類に幸福をもたらすか、災いをもたらすかということは未知数であるが、これも技術的問題とみなすこともできるし、社会学的問題とみなすこともできる。
ところで、人類は、農業や牧畜を通して、植物や動物(牛、豚、鶏など)の遺伝子を「改良」してきた。改良というのは、栽培や飼育や販売や摂食に適するように変化させたということだ。改良された植物や動物は、実は野生では生き残れない場合が多い。
もちろん、家畜の改良と、人間の遺伝子改良の方向性はまったく違うので、同一に論じることはできないが、家畜のように人間が「野生」を失っていく結果、どうなるのかは誰もわからない。もちろん、理性的な科学技術楽観主義者は、それを人類の進歩と主張することだろう。そして、現実的には、それらの技術は商業主義と結合する可能性が高い。
ところで、江口は、 生殖細胞に対する遺伝子操作の是非について、哲学的に、特に功利主義の立場から上のように考察した。
私が思うに、親が子どもを操作してもよいか、という問題は、結局のところ、子どもは親の所有物か、という問題に帰結するのではないだろうか。
もちろん、子どもは親の所有物ではないので、子どもに対する遺伝子操作は許されないと、一般的には考えられる。しかし、よく考えてみると、子どもに対する親の教育も、広い意味では、子どもに対する操作であるのに、一般的には許されるし、(その内容にもよるが)むしろ奨励される場合が多い。ひょっとすると、ここには、子どもに対する親の所有権をある程度は認定する社会的共通認識がぼんやりとあるのかも知れない。この考えの延長から見れば、子供から不利な遺伝子を取り除きたい、さらに進んで、子どもに有利な遺伝子を追加したい、すなわち子どもの遺伝子を改良したいという親の権利を完全に否定するのは、難しそうだ。こう考えてみると、倫理的に、哲学的に、デザイナーベイビーの問題に答えを出すことは、簡単ではなさそうだ。むしろ、社会学的、あるいは、技術的な問題点を浮き彫りにするほうが接近しやすいかもしれない。