一見まったり、実はかなりスリリング
★★★★★
朝日新聞夕刊連載時からすごくおもしろかった!というか、連載スリリングでした。だって大の大人が夏の別荘で「遊んでいる」だけで何も起こらないし、コモローと久呂子さんのカンケー(が何もないの)をわからないまま最初の何日かを読み、終わりのほうで、次の連載は藤野千夜という話題が新聞に出る頃、作品中では「フジノさん」から、連載やりますという電話がきて、コモローは「オレが新聞連載することがあったら、もう、サスペンスあり、大恋愛あり、次の日が待ち遠しくてたまらない感動巨編を書くね」と言うし(次の日が待ち遠しかったのは事実)、「オーエ賞」受賞を期待するコモローが子供っぽいことを言い散らかすあたりは、読んでてどきどきしてしまった。「ちょっと、コモロー、オーエさん朝日読んでるよ!」って、久呂子さんの代わりに呟きつつ読んだりして。
連載終了時の作者のコラムによると、パソコンのコピー&ペーストで同文反復をしてみた、と言うんだけど、わからなかった!今回読み返してもわからなかった!どこよ?「内面」を隠蔽した「私小説」だとも。ちなみに高野文子の挿絵ではコモローは作者似で、久呂子さんは黒子でした。コモローにしろおじさんにしろ、普段から互いに会っている人物たちなのに、夏の別荘だけにカメラを据えている不思議な小説構造は、コモローのブログ「ムシバム」の写真が、虫の意味を抜き取って「本当はこの家を撮っている」のと同じことなんだ!とふいに気づく。久呂子さんが、鴨居に並ぶ電球のすき間の意味をふいに知るように。
ちなみに我が家の「顔」(作中の、恋人のキャラをつくる遊び)で生まれた甥(16才)の恋人「35才メタボでアフロな左門豊作メガネのアニメ声のヲタクウェイトレス」「伊集院ワカメ」は永遠です。
最もエッジな遊戯!!!
★★★★★
映画「レザボア・ドッグズ」を見たとき、冒頭五分ぐらい男たちが飯を食いながら相当どうでもいいことをしゃべりつづけて全然おはなしが始まらないので「なんだこれ?」と思った。
「ねたあとに」は、あの冒頭五分間がずっと続くような小説という感じ。
山荘に大人が集まって、いろんな遊びを遊んでいる。
いつおはなしが始まるのかと思っていると
なんと、始まらない! すごい。
アッコさんという巨乳の女の人が出てくるけど、恋愛もなし。
男たちがひたすら遊ぶそばでただ揺れているだけ(もったいない)。
それは小説として面白いのか?
意外にも、面白いのだ!
人生の成分を「ドラマチックなできごと(意義深い出会いや別れ、身を焦がす恋愛、人間的成長など)」と「それ以外のなんてことのない日常」とに分けると、人生の99%の時間はきっと後者だろう。
今まで小説は前者(ドラマチックなこと)を書くものだとなんとなく思っていたけど、後者「だけ」の小説があったっていいじゃないか。
むしろ後者のうちに語られるべき面白い細部がいっぱいあるんじゃないのか?
「ねたあとに」はそう言っているようだ。
(そういえば漱石の「猫」だって、大のおとなが遊びだべる「だけ」の小説だった。)
日常の細部は人生の大きなドラマと同じぐらい面白い。
長嶋有はデビュー以来そう言いつづけてきたと思う。
「ねたあとに」はそれを突きつめ、ドラマを徹底排除したあとに「何か」が浮かび上がってくるじつにスリリングな小説だ(しかしこんな壮大な実験をよく新聞連載でやったものだ)。
真剣に遊ぶ地球人を、宇宙人が上空から見てつづった観察日誌みたいな面白さ。
初めて読む長嶋作品にはお薦めしないが、間違いなくいちばんエッジな長嶋作品。
作家コモローの山荘に招かれた気分で、一晩に一章ずつ読むことをお薦めします。