白土三平――。1932年生まれ。大長編漫画「カムイ伝」や「忍者武芸帳」の作者、まさに巨匠と呼ぶにふさわしい存在である。だが、1960年代に熱狂的なブームをもって迎えられた白土作品は、その後、漫画文化の一線から退かなくてはならなかった。なぜこうしたことが起こったのか。
本書は、10歳の著者が「微塵隠れの術」を本気で再現しようとしたエピソードからはじまっている。微塵隠れとは、白土の少年忍者漫画「サスケ」に出てくる忍法のひとつ。洞窟の奥に仕掛けた火薬で敵を倒す、という技である。もちろんこの試みは失敗するのだが、ことほどさように著者は白土作品を愛し、40年にわたって読みつづけてきた。批評家として、みずからの核に白土漫画があるとさえいう。その著者が750枚というボリュームで本格的な白土論を書き下ろした。いわば、「本気中の本気」が結実した仕事だ。このような書物に出あえることこそ、読書の醍醐味といっていい。
とはいえ、本書は単純な白土賛歌ではない。父・岡本唐貴(1903-86)が画家、それも左翼美術史上の重要人物であったこと、信州での孤独な疎開生活、さまざまな表現技法を身につけた紙芝居制作など、後年の白土漫画に影響を及ぼしたと思われる伝記的事実を次々と掘り起こす一方、作品そのものに対しては冷静な批評者の目を保ちつづけている。なにしろ、戦時中の強制連行をあつかった初期の少女漫画を重視する一方、みずから熱中した「サスケ」に対しては、「作品としての質は、かならずしも高いとはいえない」と言い切っているぐらいだ。
「忍者武芸帳」(1959-62)で重要なモチーフとなった階級闘争史観は、「カムイ伝 第一部」(1964-71)にいたって差別問題への考察や民俗学的要素を盛り込み、大きく花開く。農民、抜け忍、侍といった登場人物が、それぞれのユートピアを求めてさまよう姿は、学生運動の闘士たちを熱く駆り立てることになった。だが、バイブルと仰がれた白土漫画も、左翼運動の崩壊にともない、急速にかえりみられなくなっていく。「革命」や「闘争」に疲れた人々は、かつての聖典を封印してしまったのだ。この過程を描き出す著者の筆は、歴史叙述と呼ぶべきほどの重みをもっている。
だが、白土はけっして過去の作家ではない。その後も、民俗学的・神話的なイメージに彩られた作品を発表しつづけ、「カムイ伝」そのものも、いまだ描きつがれている。ことによると、真に重要なのはこれからなのかもしれない。巨人の筆がふたたび時代と重なることがあるのか、もしあるとすれば、それはどんなかたちをとるのか、著者とともに見据えたい。読後、そうした思いに強く貫かれるのである。(大滝浩太郎)
『白土三平論』〜戦後日本漫画史の変遷〜
★★★★☆
貸本時代の単行本作品や、少年漫画雑誌及び青年漫画雑誌に連載された作品等、
『カムイ〜』以降の『神話伝説シリーズ』について等の各時期の詳細な作品解説や、
手塚作品の影響について等、戦後日本漫画史の重要な変遷と云える内容でもある。
白土作品を愛読して来た方であれば、この『白土三平論』は色々と楽しめると思う。
カムイ伝以降の作品
★★★★☆
中学校の担任教師がなぜか教室にカムイ伝全巻を揃えていた。この本を読んでいくつかのシーンが強力に蘇ってきた。
この本はカムイ伝自体の記述はさほど多くなく,むしろカムイ伝以降の世界各国の神話を題材にした漫画についてかなり取り上げている。漫画はかなり読んでいるつもりだったが,白土三平のカムイ伝以降の漫画については全く知らなかった。そうした点もきちんと取り上げている点はよいと思う。
ストーリー中心に淡々と語りつつも,「影武者ともいうべき身代わりが次々と現れる」「追っ手に常に追われる抜け忍というポジション」を繰り返し繰り返し持ち出ししつつ白土漫画の魅力を語ろうとする姿勢にはよい。
凡庸な作家論
★★★☆☆
犬彦は大衆文化のアイコンを幅広く論ずるすぐれた論客だ。しかし犬彦が中上健次やスウィフトのようなノーベル文学賞級の小説家を論じても、白土三平やブルース・リーのようなポップ・アイコンを論じても、その論述スタンスはまったく変わらない。それは長所でもあり、同時に恐るべき短所でもある。つまり論述対象の各論がみごとな手際で展開されるのだが、それだけで終わってるのだ。換言すると、論述対象の本質的な、芸術的核心をえぐり出す迄には犬彦の評論は至ってない。たしかに教養主義的な該博な知的分析はなされる。それはすばらしい。しかし、なぜ白土三平の漫画があれほど読者を芸術の核心に触れさせうるのか、なぜブルース・リーの身体技法があれほど観客を感動させるのか、中上健次やスウィフトのどこが芸術的核心なのか、それが犬彦は論じきれないのだ。その肝腎な点を論じなければ、しょせん白土三平やブルース・リーもすぐれた漫画家、すぐれたアクション・スターとして一時的評価に落ち着き、彼らの普遍的と言ってもいい永遠の芸術的な力は忘れ去られるだろう。
時代に封印された“白土三平”がいま甦る
★★★☆☆
僕は著者の四方田氏より10歳ほど下の世である。60年代に青春期を過ごした者と、幼少期を過ごした者の差は大きい。僕が青春期に差し掛かった頃、すでに“白土三平”は世間一般的な意味を失っていた。数十年が経ってから、ある種の古典として作品と接するのならばまだいい。少しだけ遅れて来た者にとって、全共闘や赤塚不二夫や高倉健やゴダールや白土三平...の意味をフラットに捉えることはなかなか難しいことである。憧憬的な部分だけが増幅したり、逆に否定的な先入観を持ったり、まあ少し上の世代に対する見方というのは、常にそういうものなのかもしれないが。当時、白土三平の作品は身近には感じられなかったが、少し上の世代が白土三平を触れられたくない過去として遠ざけていたいた気配だけは強烈に感じていた。
四方田氏によれば、白土三平の本格的な評論はこれまでにほとんど無かったという。それがまず一番の驚きだった。実体を見たことはないが、それこそ、まるで忍びの者のように気配だけは濃密に感じていた“白土三平”に研究書がないという事実。今回の著書は、代表作のストーリー解説にかなりのページが割かれていて、そこから書き起こさなければならない、著者の苛立ちのようなものも感じられた。
そして、通読して感じたのは、上の世代(あるいは下の世代も含めて)は、白土三平だけでなく、唯物史観や階級闘争といった諸々の事柄を、表向きの敗北でうやむやに封印してしまい、結局何の決着もつけないままに、いまだ様々な問題を引きずり続けているということである。
今回の四方田氏の著書は労作である。この白土三平論を起点として、単なる懐古ではない、現代につながる世代を超えた論議が生まれることを望みたい。
白土三平を(今こそ)読もう!
★★★★★
まず本書の浩瀚さに匹敵(あるいはそれ以上か?)する内容の深さに嘆息。そして、著者には「よくぞ書いてくださった」という感謝の言葉に勝るものは、今のところ見つからない。正直、僕は白土氏の作品をそう多く知っている方では、決してない。(ただ、小学校の図書室に『カムイ伝』があり、担任の先生が「(差別を描いた)すばらしい作品だ」と言ってくれたことはおぼえている。)今、「忍者武芸帳」や「真田剣流」を読むとその読者に媚びることなく、人間のよい面も醜い面も見事に描ききった格調の高さに脱帽する。現代人よ、つまらないハウツー本を読まずに、白土作品を読め!そして理想について語り合おう。