かくも息苦しい文化への不満
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「文化が発展したことの代価として、罪悪感が強まり、そのために人類の幸福が失われた」(269p)
中山元の訳によるフロイトの文明論集第1弾。今回収録されているのは、文化そのもの(文化といっても、わりと広い意味であり「文明」に近いのかもしれない)と、古今東西あらゆる社会に必ず存在する「宗教」についての、3つの論文。
人間の性善説、つまり人間が本源的に善的な存在であるという宗教等の教えを認めないフロイトにとって、人類の悪性がそれを許さない文化という社会領域の中でどのように処理されているのか―どこに向けかえられているのか―ということを解明するのが緊急の課題であった。その悪性こそが論文「快感原則の彼岸」以降の彼の主要概念の一つとなった「死の欲動」(=破壊欲動)のことである。
フロイトによれば、人間の本源的に持つ「破壊欲動」が、原初の時分においては彼の欲望の満足の邪魔をする外部の具体的な他者(親)に向けられるが、愛を失う恐怖からそれを断念せざるを得なくなる。その後満足を断念した破壊欲動は、成熟していく人間の内部で外界の審級の化身とも言える「超自我」が発達してきたことで、あらたな対象を得ることとなる、自我という自分自身を。
つまり、フロイトは超自我によって苦しめられる自我の苦悩、つまり罪悪感の起源を、破壊欲動による自我自身への攻撃と見て取ったのである。そのような転倒が起こったが故に「人が道徳的であればあるほど、良心はますます厳格で疑り深くなるのであり、ついには聖なるものの領域のもっとも奥深くを極めた人ほど、きわめて鋭い罪の意識を持つようになる」(250p)という、なんとも逆説的で救われない状況が生まれるのである。
1900年代前半。
それは、初めての世界大戦という新しい戦争の形に直面し、人類の中にある理想な未来という「科学技術の発展」が見せてくれていた夢に、疑問符が灯った時期である
そのような時代の潮流を、計らずともフロイトはくみ取っていたのかもしれない。
訳がいい
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やっぱりフロイトさんは面白い。
中山元さんの訳も良かったのかな?
フォントが割と大きめで、中身が細かいタイトルに分けられているのでなかなか読みやすい構成になっています。
巻末に詳しい解説や、年譜がついているところも嬉しかった。
「幻想の未来」は、なんとも大胆な内容ですね。
ユダヤ人であるフロイトさん視点からの、宗教についての言及です。
人間について考えるのであれば、やはりその背景にある思想の基となる、宗教のありかたや文化について考えていくことは重要なのだなと思いました。日々、人間の言動に影響を与える重要な要素だと思うので。
「文化への不満」は、タイトルが良いな〜と思った。
そうか、そういう「不満」があったのか、、、と思わせてくれます。やはり「性欲」とは切っても切り離せないのね。。。
彼の苦しみが伝わってくるようです。
それから、「愛」について語られているところが、この中では一番興味深かったです。今のわたしにとって。
最後の「人間モーセと一神教(抄)」も面白かった。
「モーセと一神教」の論文のほうも読んでみたくなりました。
次はそれにします。
この本は、結構入りやすい割にはフロイトらしさが良く出ているなぁと思います。
かなりお薦め☆
臨床と非臨床
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本書に治められている論文からは臨床家・治療者フロイトの顔も垣間見え
つつも、文化人・批評家としてのフロイトが大きくクローズアップされてい
るように思う。フロイトは治療者として始まり、死ぬ寸前まで精神分析療法
を施行し続け、臨床家・治療者として生涯あり続けた。それと同時並行的に
、なぜ文化論・宗教論・芸術論といった非臨床的なジャンルにまで進出しよ
うとしたのだろう?
それは、人間というのは幼少期に体験したことがとても重要な意味をもっ
てきて、細部は違えども、現在の人間関係や、生活、思考、空想、行動に影
響している。いわば過去と現在がパラレルになっているのである。そのよう
な中で、文化や宗教観というものは生活の中にしみこんで、空気のような状
態になっており、意識することが難しいが、これは幼少期の忘れられた体験
を意識するのが難しいのと同様のものであると思う。
なので、文化や宗教観を意識化・分析していくことで人間の幼少期の体験
につながっていくことができ、自由連想だけではなかなか到達できない深い
部分を知ることができるのではないかと思う。そういう文化や宗教といった
ものに臨床的に活用できるヒントがあるのだろうと思う。文化や宗教観を扱
うことはそういう意味で、もしかしたら非常に臨床的な営みであると言える
のかもしれない。
最初に僕は「非臨床的なジャンルにまで進出しようとしたのだろう?」と
問うたが、色々と考えてみると、一見非臨床的に見えつつも、実は臨床的な
ものだったのである。このことからもフロイトの文化論・宗教論などは単に
批評家として第三者的に考察しているというよりも、患者のこととして、そ
して自分自身のこととして臨床的な観察眼によって扱われているのである。
フロイトの骨太な文化論が身近に
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晩年のフロイトが、西洋文化とりわけその中心にあるキリスト教を、精神分析の視点から批判した書。「文化」とは、人間が自分の動物的で盲目的な欲望をコントロールするための、自己調教装置の総称である。その中心は道徳や宗教であり、幼時から人間に欲望の断念と社会規範を脅迫的な形で刷り込んでゆく。神経症とは、このような規範が動物的欲望を抑圧するところに生み出されるきわめて人間的な現象なのだ。フロイトは、文化、芸術、宗教のすべての現象の中に、この神経症的症状を読み解いてゆく。中山氏の新訳は、論旨の骨格を浮かび上がらせて、切れがよい。旧訳と比べよう。「芸術は、文化の要求に応じて我々が行ってはいるものの、魂のもっとも深い部分では今なお未練を残している最古の願望断念に対する代用満足であり、したがって、この願望断念のために捧げられた犠牲から生まれる不満をなだめるには、一番適している」(人文書院版著作集3)。「芸術とは、ごく原初的で、今なお人間のもっとも深いところで感じられる文化による放棄の命令の代償としてもたらされる満足であり、文化のために捧げられた犠牲との和解をもたらすものに他ならない」(中山訳、p28)。