庭で飼っている兎を殺して食べる父と娘。娘はやがて捕食者側の立場から、食べられる兎
へと同化してゆくのだが、その狂気とも呼べる世界が何故か異常に魅力的に見えるのは、
稀代の才能を生まれ持った作者の筆の妙か。
ストーリーや筋書きを超えた凄みがこの作家の作品には潜んでおり、それが今読んでもま
ったく古臭さを感じさせない所以なのだろう。歴史に篩いをかけられても、なお後世に残
る秀作ばかりが集められており、小説好きには是非とも手に取ってもらいたい。
村上春樹と同じ匂いの「寂しさ」が全体に漂っていることから、同氏の作品が好きな方に
もお勧め。
何より新鮮なのは、その何気ない日常の細部に目配せされた視線の緻密さで、台所、食材、煙草、コーヒー、ノート、ペン、手紙、特に食べ物に関しての執拗な描写が出てくるが、普通なら、これら小説の小道具でしか有り得ない多くのさりげない日常のディテールが、まるで壮大な作品の主題のように思えてくるから、不思議である。
ここには、金井美恵子がデビューしてから十三年ほどの、一九七〇年代までに書かれた主要な作品が収められているが、作品が紡がれるごとに、その批評的精神が突き詰められていく経緯が、何より凄い。
〝書くということは私の運命なのかもしれない〟という極めて美しい冒頭からはじまる「兎」は彼女の初期の代表作であり、さらに、その小説は実は私が描いたのだ、と作者が告発される「プラトン的恋愛」も、やはり彼女の重要な作品だ。
他にも、金井美恵子という人は短篇の名手であり、魅惑的な作品が数多いのだけれど、これらだけでも十分彼女の豊かな才能を窺うには申し分ない。この作品で興味を持った人は、その後のやはり彼女の代表的短篇を集めた『ピクニック、その他の短篇』をお勧めしたいし、また、〝目白四部作〟なる通俗小説も楽しいし、画期的な長篇『岸辺のない海』というのもある。