文芸の深みと批評の効き目を示している文庫
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まずは第一に詩人であるT.S.エリオットが詩の実作の現場から考えた、文芸批評をめぐる論考と具体的な批評が収録された文庫。順に、「伝統と個人の才能」「完全な批評家」「批評の機能」「批評の実験」「批評の限界」「宗教と文学」「形而上詩人」「アーノルドとベイター」「パスカルの『パンセ』」「ボドレール」の伝十篇を収録している。
他のレビュアーさんも仰っているように、冒頭の「伝統と個人の才能」は他の論者にもよく取り上げられるものだが、読んでいくと、単なる伝統礼賛ではないことに気づく。エリオットの言う「歴史的意識」や「伝統」は、現在の自分たちのありようや生き方を理解して、よりよくあろう・よりよく生きようとするときに必要不可欠な前提として用いられているからだ。今しか知らないのならば、今さえも十分に知ってはいないこと、自分や仲間しか知らないのなら自分や仲間さえもよく知っていないこと、自分の住む地域しか知らないのなら自分の住む地域すらよく知りえないこと、この類の知恵はイギリス的知性がよく見抜いていると思える。(エリオット自身はアメリカ人だが、ヘンリー・ジェイムスと同様にヨーロッパ的な思考様式を身につけていて、ジョージ・エリオットやジョセフ・コンラッドと同様にイギリス文学者として遇されている。)
詩人の創作に際してはロマン主義的なある種の「天才崇拝」を斥け、既成のセンティメントの型を熟知した上でセンティメントの新しい型を作り出せることを詩人の功績と見ている。(ここは、マイルス・デイヴィスが「自叙伝」で言っていることと強く共鳴している。)この論考での「個性」は、「天才崇拝」を否定している文脈で斥けられている。
一方批評については、ロマン主義の批評的展開としての印象批評を斥け、文芸批評が急速に他分野の背景知識を必要としてきたことを跡付け、表現者の伝記的知識を集積した説明的批評を斥ける。そしてエリオット自身が批評の機能として考えたのは、その批評がなかったら詩を読むことで見えなかったつながり・味わえなかった感じ方を気づかせてくれる効き目と、どのような詩がよいものであるかをはっきりさせる基準の二つのようだ。
そうやって考えてみると、ここでのメタ批評と具体的な批評それぞれが、テクスト間の関係、作家と批評家と読者の関係、具体的な作品の内実などを再考させる気づきに満ちていることがわかる。この文庫は言語学教授が読んでいたものの頂き物だったが、ここで読み取ったことを手がかりにして多くの書物を読むようになった気もする。想定以上に深い思索につながっていく著作だと思う。
「伝統と個人の才能」
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彼の有名な論文、「伝統と個人の才能」が収められている。
ここでは、この論文について書いておこう。
エリオットは、詩や作品の価値を決めるのに、個人の才能とか個性とかは重要でないという。
彼にとって重要なのは、文学全体の大きな流れ(伝統)の中に、自分を置いて、その流れに従うことである。
彼は、比喩として、化学反応における触媒を挙げる。
触媒にあたるものが個人の才能や個性であり、反応物質に当たるものが文学の歴史的流れ、生成物が詩や作品である。
だから重要なのは、そうした文学の大きな流れを感じ取る「歴史的感覚」であり、その流れにあったように個性も現れる。
ただし、芸術の本質は「非個性的」である。
彼の理論はかなり極端ではある。
しかし賛成するにせよ批判するにせよ、一度目を通しておくのはいいと思われる。