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日本語は生きのびるか---米中日の文化史的三角関係 (河出ブックス)

価格: ¥1,260
カテゴリ: 単行本(ソフトカバー)
ブランド: 河出書房新社
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日本語は22世紀に生きのびることは間違いないが… ★★★★☆
学生時代、理科系は第二外国語としてドイツ語、文科系はフランス語を選択するのが普通であった(と思う)。現在は第二外国語の選択は大分様変わりしているようである。そして経済、人の流れのグローバル化にともない英語が世界の支配語となりつつある。最近の報道によると英語の第二公用語化や企業(外資系に限らず)の社用語(?)として英語の採用の動きもあるようだ。

水村美苗著「日本語が亡びるとき−英語の世紀の中で」では各々の国語で文学を書くのが困難になっていることが印象的であった。日本語は1億人もの日本人がいる限り今世紀中に亡びることはないと思うが。平川氏も本書の冒頭で読者に22世紀に日本語がどうなっているか問うている。考えてみるとこれは日本語だけの問題ではない。嘗て席巻したドイツ語もフランス語も夫々の国内だけで使われるのであれば日本語と同じ運命をたどることになる。

著者はこれから先のグローバル社会では、バイリンガルでバイカルチュラルな日本人が要請されることが明らかであり、さらに知的選良にとっては第二外国語をも駆使しうる「三点測量」可能な人材が求められるという。但し、日本人については第二外国語を日本語の古文や漢文を代用してもよいとのこと。

さて、前述の著者の「問い」であるが、日本という国家がなくならない限り日本語もなくならないだろう。しかし、日本語が残ったとしても英語から機械的に翻訳されたような言語となれば、空疎な日本語が残るだけである。我々凡人にとって(知的選良にとっても)、英語の習熟は必要としても、古文や漢文を勉強することが第二外国語よりも重要なのではないか。尊敬する平川先生の著書ではあるが、日本語を諸言語のなかで相対化してしまうような印象があることが気にかかる。
言語は国、文化、歴史そのものであり正解がない。あるべき姿を論じるには勇気がいる ★★★★★
1000年以上前に中国から渡来した漢字、知識階級の政治・学識・思想分野の支配言語として導入され以来歴史は現在に続く。一方日本独特と言いますか得意の他文化比較研究、応用吸収展開能力で100年もしないうちに(と理解しているのですが)ひらがな対応の古今和歌集を編纂し源氏物語を生み出した日本語。その日本語が俗に言うグローバル化、フラット化、益々席巻する英語の世界にあって今後どのような運命を辿るかに付いて論じる著書です。

これは現在の日本社会が文化、経済、人口動態的に直面する大きな問題であり関連著書は数多く出版されています。支配言語としての英語の位置付等、歴史的にはラテン語、フランス語等と同様との著者の視点です。この著書の明解な論点は、支配言語は話す人数が多ければ良いということでなく母国以外の多くの国が使用しなければならないこと、世界的な最新の科学技術・人文科学(含経済)を得る、又参画する為の共通手段足ることであり、その意味では現代社会は英語であること。日本社会の為(勿論何をもって為になると言うのかは議論の別れるところであると思いますが)には英語対応力の深化、発信力強化が不可避であること、そして英語を現在の西欧、欧米と言うとすればそれらとの協調も必要としています。一方、そのなかで日本語をより洗練し、進化させていく方法としての古典教育の重要性も提言。

ここは又論議を呼ぶのでしょうが、著者に限らず異文化経験豊富な知識人(学者、作家、ビジネスパーソン含め)がこの点でほぼ共通認識(反対意見も当然多々)なのが記憶に残ります。藤原正彦氏のように真っ向反対の方もいらっしゃいますが、凡人として注意しないといけないのは、藤原氏は既に高校生の時全国英語模試で一番だったほど英語の才能があられたこと、留学など当たり前、ケングリッジ他で教鞭をとるほど英語がご堪能であること。こういう凄い人が英語なんぞどうでも良いと主張されたからと言って(そういう意味でおっしゃられたのではないと思いますが)凡人がそれをそのまま鵜呑みにしては少々まずいかなとも個人的には思います。何故か日本で英語を文化として論じると大きな論議を呼んでしまうのですが、あらたに一石を投じる良書が出版されたようです。
あまりの懐かしさに、 ★★★★★
35年前の理一の教え子(習い子かな)です。初めてのフランス語とイタリア語を教えて頂きました。当時から、いつもにこにこしてらっしゃって、ユーモアあふれる平川先生の大ファンでした。イタリア語のクラスで、signorina の複数形は? というご下問に、ある学生が「シニョリーテ」と答えたところ、先生は「おいおい、シニョリーテはないだろう」とお笑いになったのを今でも鮮明に覚えています。教養学科では、10以上の外国語を履修することができ、今にして思えば、こんな贅沢なことはありませんでした。さて、このご本で一番気に入ったところ(全部気にいったところなのですが特に)は、「古文を英訳で教えて一石二鳥の平川方式」でした。さすがに、東大ではこれほど自由な科目は作れなかったでしょう。まさに先生の面目躍如で、自分までうれしくなりました。でも、母と同い年の先生が「人生のおわりに」なんておっしゃると、とても悲しくなります。ああ、もう一度駒場で先生の授業を受けてみたい!
面白い論点満載です ★★★☆☆
平川さんの作品は久しぶりに読みました。いくつかのエッセイをや雑誌論文をまとめなおした作品ですので、驚くほど著者の率直な本音や小話がいろいろ出ていて楽しめました。特に註の部分が面白い。とうとう名うての西欧研究者もこのような境地に到達したのですね。アメリカの日本文学研究や歴史学会自体が反ヴェトナム戦争世代による政治的な乗っ取りIn Denial: Historians, Communism & Espionageにあった後で、アメリカの日本研究自体も対象への真摯な接近というよりは、自分の政治的心理的なagendaのアリバイ構築のためのケーススタディへと退化し始めている点も註でさりげなく指摘されています。結局、アメリカの地域研究Know Your Enemy: The Rise and Fall of America's Soviet Expertsなんて学問の意匠をとった「政治への奉仕」の作文みたいなもんなんですわ。もっとも第一世代の日本研究者自体も、これまた度し難い「宣教師史観」に染まっていたことも指摘されています。アメリカにおける親中派と親日派の歴史的な構図、そこに潜む永遠の誤解の喜劇性、そして占領後の奇妙な反神聖同盟の構図(アメリカと日本左翼)、この全体像の中でいつもグロテスクな役割しか果たさない日本のメディアや学会への批判、そして戦前でのマルクシズムの隠れた浸透など現代にもインプリケーションを持つ様々な論点が呈示されます。しかし最後の部分で呈示されるエリート主義的な教育政策論は、これ自体西欧の発想の焼き直しですが、平川さんの譲れない防衛線なんでしょう。技術論に退化した英語学習が前面に出てきたなかで、第二外国語学習や日本古典への目配りなんて、どこに時間があるのかしらというのが正直な感想です。英語を使っての経済学の勉強なんて、一歩間違えれば、疑似宗教への洗脳みたいなもんですから。