そして「存在する勇気」には「個人として存在する勇気」と「全体の部分として存在する勇気」があり、実存主義を「個人として生きる勇気」として位置付け(ここに彼の哲学の視点がある)、また「全体の部分として存在する勇気」は神への参与でなければならないと訴える(ここに彼の神学者としての考えがある)。その上で、2つの勇気がそれぞれ「世界の喪失」と「自己の喪失」という結果に終わってきた人類の歴史を俯瞰する。
最後にあるべき「生きる勇気」を考察する。
「不安を臡ª塊·±自身のなかへ引きうける勇気は、人間の自己に固有な力あるいはこの世界が持つ力などよりももっと大きな『存在それ自身の力』に根ざしていなければならない」「生きる勇気とは信仰の一つの表現である」との立場から、「神を超える神」への絶対的信仰について考察し、「生きる勇気とは、神が懐疑の不安のなかで消滅してしまったときいにこそあらわれ出る神に基礎付けられている」と締めくくる。
<コメント>
平易な言葉で書かれてはいるが、存在論としての西洋哲学の全体像と、基本的な神学の構造を理解していなければ、彼の思想の偉大さと課題は理解できないであろう。ましてや、彼が残した課題を21世紀に生きる人間として受け止めて行くことは不可能である。
彼は英語が苦手であったにもかかわらずドイツからアメリカに亡命後は英語で本を書いた。この本もその一つである。そのため、訳は英語訳を基本としながら、独語と食い違うところは独語訳を優先している。とても丁寧に訳されていると感じる。
ただし、「The Courage to be」を「生きる勇気」と訳したのは、勇み足であろう。ここでいう「be」は「生きる」というよりかは、西洋哲学の存在論の立場に立った「存在する」というのが正しい。そして訳者もそれを知っていながら、あえてこのように訳している。
よって、タイトルから勘違いしてはならない、この本は安直な「癒し系」の哲学書であるどころか、不安と無を自己自身の中へ引き受ける「絶望する勇気」を要求する容赦ない哲学であり、その上で彼の考えに従えば「神を超えた神=存在そのものの力に既に受け入れられていることを受け入れる」ことを感じる事ができる者のみが「癒される」のである。あくまで彼が神学者であることを忘れてはならない。「本質存在から阻害された人間を全体の根底の一部へとならしめる」という彼の㡊!現代人の救済」は、西洋哲学独特の二元論的な存在論の範疇から出ようとしない彼の限界があることを、冷静に受け止めなければならない。