ここまでは誰もが知っている話だろう。これは、単に地球上で繰り広げられる富の配分の不均衡の話ではない。富の不均衡がますますひどくなっているのは、グローバル化する世界ではそれ以外の進歩の形が許されないからだ。つまり、第一次産業を見下し西洋型の開発モデルだけが国を救えると教えつけること、グローバル市場に参加することこそが彼らが考える豊かさをもたらすことになっているのだ。多国籍企業の効率良い生産と分配の中では、個人の生産者が勝負に勝てる見込みはない。労働者は、ただ歯車の1枚として大きなシステムの一部に取り込まれる。それは個人の幸福よりも金銭的効率に価値のある社会であり、すべての価値は貨幣価値によって示される。貧困の度合いもそうだ。
だが、たとえ1日1ドルで暮らしていようと、生活に必要なもののすべてを自給自足で手に入れ何も買う必要がないのならその暮らしは貧しいだろうか?反対に、1日200ドルの金を稼ごうと、生活に必要なものを市場で買う必要がありそれには200ドルで足りないのなら、その生活は豊かだと言えるのだろうか?自分たちは幸せだと思うと答えた人々が貧しいバングラディッシュにおいて高い割合を占め、日本では低い理由は何なのだろう?先進国で精神的疾患が増え続け犯罪がなくならない理由は何なのか、未だにオレたちにはわからないのだろうか?日本を含め、多くの先進国の若者を冒す根深い社会病理に気づいていない人がいるだろうか?
「本当に自由な人とは、自分の食べ物を育てることができる人たちです。」とマレーシアの農民は作者に語ったそうだ。同様に、ネパールで「日本の子供たちは食べる物に困らず高い教育も受けているんだから、きっとすごく幸せなんでしょうね?」と問われたオレには何も答えられなかった。明らかに、幸せではない者の方が多いように思えたが、そう答えたらネパールの人々は侮辱されたように感じなかっただろうか?本当は、誰もがこの本に書かれた構図に気づいているのではないのか?少なくとも、精神的な豊かさが物質的な豊かさから生まれないことならとうの昔に気づいていたはずではないか?つまり、貧困は貧しい国だけの問題ではなく、オレたち自身もまたその価値観によって苦しめられ、別の形の貧困を味わっているということだ。
the NO-NONSENSE guideの1冊として発刊された本書は非常に短くシンプルだが、貧困の姿を的確に描き出し、解決の糸口のようなものも示してくれてさえいる。実現できるかどうかは別として、多くの人に読んでもらいたい提言である。