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大衆の反逆 (白水uブックス)

価格: ¥9,371
カテゴリ: 単行本
ブランド: 白水社
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自由は我々をどこへ導くのか。 ★★★★★
 「大衆の反逆」は我々の知的好奇心を刺激する本であり、近代に対する深い洞察を持ち合わせた思想書でもある。オルテガは19世紀がもたらしたリベラリズムと資本主義が、ヨーロッパにおける飛躍的な物質的蓄積と精神的自由をもたらし、そのような恵まれた環境下で大衆という新しい人間類型を生み出したとする。大衆は文明社会を自然と同じく必然的なものと感じており、文明がもたらす富を当然のように享受するが、自らが何らかの義務を負っているとは感じない。彼らは近代のヨーロッパにおいて支配的な勢力となりつつあるが、そのことはヨーロッパに、文明にとって何を意味しているのか。オルデガはこの点を問いかけている。
 近代がこれまでの時代との大きな違いを含んだものであることは、多くの知識人に認識されてきた。しかし、オルデガの問いは哲学的な背景を含んでいるため、より本質的である。彼は大衆を一つの奇怪な精神状態であり、甘やかされたお坊ちゃんであるとする。彼らは自分自身の権利には関心を持つが、自らの義務に関しては、それが自らの便益に寄与することであっても関わりを持とうとはしない。彼らは、革命によって近代における主人となり遂せたが、自分たちが何をすべきかわからない。言い換えれば、彼らは自らの目的を有していない。このような大衆がもたらすのは、文明の自家中毒であるとオルデガは主張し、彼らは自らに、何らかの目的を与える存在を求めているという。その具体例が近代において特異な政治運動として表れた、共産主義であり、ファシズムであるという。
 オルテガは、これらの大衆の反逆とでもいうべき現象に警鐘を鳴らすだけではなく、ヨーロッパにおける新しい目的も提示している。それはヨーロッパ共和国の思想であり、現在、EU(ヨーロッパ連合)として我々の前に姿を見せつつあるものである。私には、リベラリズムに陥り、目的を見失った、大衆にとって、この目的は、必要であり効率的でもあるとオルデガが考えていると感じられた。
 これまで、オルデガの主張を簡単に見てきたが、近代が大衆という新しい人間を生み出したのは、一つには、リベラリズムに代表される合理主義が、キリスト教のような規範、倫理をヨーロッパから失わせたためだとも言えるだろう(それが歴史的に必然であったとしても)。大衆は無責任であり、何も考えないが、それは、彼らが近代の思想に忠実であろうとしたためでは無かったか。オルデガが述べているように近代の思想こそ、大衆とその結果としてのヨーロッパの退廃の責任者ではないだろうか。では、近代の思想とは何であるだろうか。それは、自由主義である。
 自由は我々にとり、権利であり、命を賭けてでも守るべき何かであると信じられている。しかし、その自由が人間にとり、目的の無さからくる無気力と倦怠を誘う原因であるならば、我々は自由をこのようなものと捉え続けてよいのだろうか。エーリッヒ・フロムが指摘しているように、大きすぎる自由は過度の熱狂とその結果としての独裁を生み出すのではないだろうか。
 このレビューにおいては、「大衆の反逆」の一部分しか触れることができなかったが、「大衆の反逆」は我々に近代とその産物としての大衆に関しての洞察を提供するだけではなく、その背景にある人間社会に関して幅広い知見を与えてくれる名著である。ぜひ、手にとって欲しい。
オルテガの指摘は現代性を持ちうるか ★★★★☆
内田樹のブログを呼んで、オルテガの名前を目にして以来、ようやく読了。20世紀初頭のヨーロッパ(スペイン)と21世紀初頭の日本において、オルテガの提示したテーマは現代性を持ちえているだろうか。

オルテガを批判(した)する者は、エリートと大衆の区分についてであろうが、オルテガの貴族性とは内的なものであり、身分制度として述べているのでないことは自明である。過去からの時代精神や制度、思想などの恩恵の上に成立するはずの現代人が、過去の英知や努力などをご破算(無視)にした上で、果実のみを享受しているということ、あるいは権利のみ主張し義務を省みない者たちやその心象こそを、オルテガは批判したわけである。

発達した科学やシステムの中で、選択の自由度は増したにもかかわらず、それら生与の権利に対し無自覚であることが大衆の罪であるとしたことは、現代に生きる者にとっても的外れな話ではない。文明や生きていく上での前提条件ともいえようか。

彼の主張は、支配するものとしての「国家」にも言及されるが、彼のテーマは政治やイデオロギーにはない。ファシズムやポルシェヴィズムを批判的に述べているとしてもだ。彼の着眼は「生の衝動」という言葉などで繰り返されるように、生きること、文明社会の本質的そのものに対する問いかけのように思える。

そういう観点からは現代のネット社会に生きる我々が、彼の忌み嫌った「大衆」であることは論を待たないし、オルテガの指摘は今でも鋭さを失ってはいない。しかし、とことんまで分散し個別化した大衆が、改めて解体され再生されることがあるとしたら、そらがどういうことなのかは、今の私には見えない。
名著 ★★★★★
20世紀初頭の欧州における、特に政治分野における大衆化に焦点をあてた作品。
学生時代に読んだことで大衆化ということの意味、本質などを理解させてくれた一冊。

また、大衆化に伴う均質化や暴力的なまでの民族主義など、現代のわれわれにとっても古さをあまり感じさせない内容である。
それは、扱っているテーマが普遍的なものだからであろう。

オルテガの筆致は厳しい。特に、自らの能力を十分に発揮して社会に貢献するという「意欲」に欠ける者にとっては。

読者にとっては、大衆に属していることは十分に認識しつつも、高潔な視点から物事を見ようといういましめを感じさせてくれる。

個人的には名著です。
魅惑の文体、真摯な内容、しかし反作用も ★★★★★
スペインの思想家オルテガが1930年に著した書。その書名「大衆の反逆」は以前から聞いたことがあったが、そのなんか大仰な響きに気後れして、なかなか読むことがなかった。ひょんなことから読んでみると、その読みやすさ、どこか詩的な文体、捉えたら離さない語り口で、最後まで一気に通読してしまった。
ここで「大衆」とされているのは、他のレヴュアーさんも仰っている通り、実社会の特定の階層を指しているのではなく、その特有の諸属性を持った人々のことだ。対照的に挙げられている「貴族」も同様に特定の社会階層の人を指すとは限らず、「大衆」と正反対の諸属性を持っている人々、特に、自分より高次の何事か・何者かに奉仕の念を持って判断・行動し、他人に対してより自分に対して多くを求め、課している生き方を何度も強調している。
 
非常に求心力の強い語り方が最後まで続き、わが身を振り返って身につまされること、反省すべきことを多々感じた。しかし同時に、この書で説かれている事柄、語り方は、社会的高所に立つ人々が下々の人々に向かってそれを用いた場合、非常に抑圧的に、統制の強化を正当化してしまうのではないか、本書の内容に相違して、オルテガの言説もファシズムと強い親和性を持ってしまうのではないか、とも思えてくる。個人個人が読んでそれぞれの内面をチェックするのにはとてもいい本だが、統制者がここでの議論を被統制者に向かって押し付けると嫌な感じになるだろうな、と少し危惧も覚えた。とはいえ、読んでタメになるし、自戒の気持ちも抱ける名著なのは間違いなし。
古典にしては読み易い ★★★★☆
 『社会学がわかる事典』-森下 伸也 (著)p.136にオルテガの大衆観がまとめられているので、
それを引用しつつ紹介します。↓大衆の特徴
“1.非常に均質的・画一的で、突出した個性を持たない。
2.何事においても他律的で、他人や世論に同調し、あるいは自分に同調を求める「烏合の衆」である。
3.理想や使命感や向上心など無縁の存在で、自分の現状に満足しきっている。
4.文明の恩恵が自動的に享受できるのを当たり前と思っており、文明や伝統に対する畏敬や感謝の念、
また、未来に対する責任感を欠いた「忘恩の徒」である。
5.自分たちが一番偉いと思い、自分たちのわがままをどこまでも押し通そうとする「駄々っ子」である。
6.精神性などかけらも無く、物質的快楽だけを求める「動物」である。
7.以上のような自分たちのあり方を、何が何でも社会全体に押し付けようとする「野蛮人」である。”

 この特徴を逆転させたものがエリートだが、
オルテガは、上記のような大衆が主権を持っただけではなく、
エリートたるべき指導的階層の人間が大衆化していることが問題だと考えた。
 また、オルテガはファシズムやボルシェヴィズム等の反自由主義体制が、
「時代錯誤」(p.116)である点を指摘し、強く批判しています。↓本書(大衆の反逆)より抜粋

 サンディカリズムとファシズムの相の下に、はじめてヨーロッパに、
理由を述べて人を説得しようともしないし、自分の考えを正当化しようともしないで、
ひたすら自分の意見を押しつけるタイプの人間が現れたのである。
これは新しい事実だ。理由をもたない権利、道理のない道理である。
この新しい事実の中に、私は、資格もないのに社会を支配する決意をした
新しい大衆のあり方の、もっとも顕著な特色を見るのである。(p.86)

 ボリシェビズムとファシズムは、二つの偽りの夜明けである。
明日の朝をもたらすのではなく、何度も経験された昔日の朝をもたらすのである。〜中略〜
われわれが十九世紀の自由主義を乗りこえる必要があることは疑う余地がない。
ところが、それはまさに、ファシストのような反自由主義を宣言する人間にはできないことである。
なぜならば、それは―つまり、反自由主義あるいは非自由主義は―
自由主義以前の人間のとっていた態度である。(p.113-114)

 この論文で私があえて主張しようとしている最大のことは、
革命あるいは進化は歴史的現象であってもらいたい、
時代錯誤であってはならない、ということである。(p.116)