そこでオートポイエーシスのなかでも最も複雑で典型的な自己言及システムである心的システムが考察される。心的システムの固有の特徴として観察システムの出現が指摘され、最終的な問題提起がなされていく。観察システムの本性として「自己を世界との関係で捉え」ることが論証され、ルーマンやドウルーズへの批判的な検討とともに無意識への否定が示され、システムの基本的定義に戻る....。
カフカの『審判』を題材にした終章は『審判』そのもののように開いたまま閉じられる。それは読者個別のそれぞれの現実に作動可能な一冊だということを示してるようだ。
本書は理論書だが、本書から大きな影響を受けた本として斎藤環の『文脈病』があり、斎藤の現在の批評活動そのものもシステム論との反復作動が目立つ。
またオートポイエーシスの最重要概念である「自己の境界を区切るというシステム-環境」を支える「位相学的座標軸」などは、ほとんど吉本隆明の『心的現象論序説』における基本概念の「原生的疎外」「純粋疎外」などの位相学的構成とオーバーラップする。
本書はさまざまな散種が期待される一冊だといえるだろう。
作動が停止すると、構成素が残るといっているから、作動すると、構成素が構造を形成することになる。だが、作動するためには構成素が必要である。何もないところで「作動」が可能であろうか。不可能だ。なぜなら電源を入れるには、構成素や構造がなければならないから。!これは逆に、構成素や「細胞」(構造)があってもそれだけでは「生きた細胞」にはならないのと同じことである。生きた細胞になるためには「作動」が必要だ。だがその作動は構成素を必要とする。この事態をどのように説明するかにこの理論の生命がかかっている。
「本文」ではこういう。「システムは作動をつうじて構成素を産出し、現実の構造を形成する。」次に「オートポイエーシスの規定をみたすような構成素を見出すことができれば、ただちにシステムは作動を開始し」と上に述べたことに矛盾することを主張し、最後に「オートポイエーシス・システムは作動することによって現実の構成素を産出し、そのことをつうじて現実の位相空間(いろいろの空間)に存在する。」と最初の定義にもどっている。そして「システムにとって産出的作動という行為をおこなうことが、そのまま現実に存在することである。行為することがすなわち存在することであるような行為存在論である。」と結論する。著者はこのあたりの論理の矛盾ないしあいまいさを解決する必要がありそうだ。それは産出的作動の正確な定義にあるように思われる。