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日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実

価格: ¥3,150
カテゴリ: 単行本
ブランド: 水声社
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史実に基づいた奥深の書。日蓮の奥義の一端を知りました。 ★★★★★
以前の板本尊と違い現在の大石寺の板本尊がプラスチック成形に見えます。
なんで七百数十年も前に金箔やプラスチックがあったの?

もしかりに日蓮聖人のご真筆であれば現代のお坊さんがプラスチックで成形しなおすことをするでしょうか。
大謗法ですよ。
不思議に思っていたのです。

後世の作りものだったのですね。
大聖人自身「仏像等は心を表さず」と申され「このご本尊余所にもとむるなかれ・・」と我々の心中に存在するものと断言されています。

物体に執着し権力を誇示する大石寺には大聖人の命が継がれていないのがわかりました。
一読してもいいだろうが、内容の信憑性・中立性に欠く ★☆☆☆☆
まず、創価学会員である著者が創価学会が事実上認める形で出版した点については評価できると言える。
しかし、内容は「戒壇大御本尊は弘安二年ではない」というこじつけを証明する形で書かれていると言わざるを得ない。本来、「戒壇大御本尊は本当に弘安二年のものであるのか」というテーゼから結果を述べるべきであるが、否定するための題材を列挙する形となっている感が否めない。
とりわけ「経」の字からその否定理由を根拠としているが、無断撮影の戒壇大御本尊の写真掲載といい出所不明な資料もあって、やはり偏向的である。
身延流、富士門流問わず本書は信仰面からすれば悪書であることは間違いなく、創価学会が戒壇大御本尊、富士門流の二箇相承を否定する題材として出版したのではないかという策略が感じられる内容。
資料性に対して言えば、中立性を確保しようと著者は思慮しているようだが、敬称を省いた事の程度であり、乏しい。
ただし、本書は恐らくは相当の時間を費やし、資料を吟味して書かれたものと推測され、富士門流信仰における本尊観を否定する材料として今後創価学会の教科書とされるのではないかと勘ぐりたくなる印象がある。
知識として本書のようなものが存在するという事を得る意味で一読しても良いだろうが、中立的な資料と出来るものではない。
純粋に信仰している人が読むべき本ではなく、信仰者にとっては創価学会の策略が見える悪書と言うべき内容である。
今後の創価学会の方向性を示唆している ★☆☆☆☆
創価学会員である金原氏による、日蓮正宗大石寺への研究批判書。
昭和30年前後の日蓮宗による[日蓮正宗と創価学会への批判本]を知らない世代の目には特筆と映るかもしれないが、
内容としては古今繰り返されてきた大石寺批判の総集編に過ぎない感が強い。
その論拠のほとんどは大石寺からの破門以前には金原氏の属する創価学会が否定し退けてきたものである。

それよりも私がこの書の記述の中で重要視したい点は、
1、 旧会則では「この会は、日蓮正宗の教義に基づき、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、
   日蓮正宗総本山大石寺に安置せられている弘安2年10月12 日の本門戒壇の大御本尊を根本とする」と明記していた
   [大石寺蔵・弘安2年の板御本尊(本門戒壇の大御本尊)に対する偽造説]の、創価学会員による出版を創価学会が公に容認したこと。
2、 同じく創価学会員による、かつて偽書としていた『身延山久遠寺番帳事』(池上本門寺蔵)の記述を支持した『二箇相承』への疑宜の記述。
   つまり“日興上人が日蓮大聖人の指名による正統継承者(僧宝)”であるというこれまでの主張の撤回につながる記述を、創価学会が公に容認したこと。
である。この二点は、日蓮正宗大石寺と他門日蓮宗の間を分かつ700年来の最重要争点となってきた。
金原氏によるこの2つの主張に対して宗教法人創価学会が暗黙の同意を与えている事実は、
過去の創価学会という宗教を根底から破壊するものである点で、今後の創価学会の方向性を示唆するものとして非常に興味深い。
弘安二年に認めたと考えるほうが不自然では? ★★★☆☆
まず言いたいことは日禅授与の御本尊と戒壇の大御本尊の主題の文字は同時期に認められたものの可能性は高いが、完全に一致などしないということです。
 以前から思っていたことですが、大御本尊の建立された日が弘安2年10月12日の即日であると考えるほうが不自然ではないですか。熱原の法難が完全に収束しないうちに、しかも結末が予測不能な時期に大御本尊を建立されるでしょうか。弘安2年10月12日が戒壇発願の日ではあっても、認められたのはそれ以降であるほうが自然ではないですか。楠を準備され、加工し、認め、彫刻されるには時間が掛かるのではないですか。それを弘安2年10月12日以前から準備されたのでしょうか。それ以降に準備され弘安3年春頃に認め、発願の日である弘安2年10月12日を(おそらく日興上人が)脇書きに残された師弟一体の戒壇の大御本尊と考えてはいけないでしょうか。
(右現当二世以降の脇書きの書体は明らかに大聖人の御文字と異なっていますので)
そっちのほうがはるかに自然で、私は返って主題の文字が弘安3年以降のものであるほうが大御本尊に対する(大聖人真筆であるという)信憑性が高まると考えます。
真理を求めよ ★★★★★
真理を求めることが、即すべての人にとって良い価値をもつわけではない。物事に誠実であろうとすればするほど、今までの自分を否定することになりかねないからだ。御書を通読して、『正宗の教学』に不自然さを感じて10年。編集されたであろう書や、後世の創作物などは、文体において、格調において、そしてなによりも『醸し出す臭い』において、感じてしまうものだ。この金原氏(実名かどうかは知りませんが)の著作からは、誠実であろうとする知識人の苦悩が感じられる。まだまだ研究の余地があることを承知で、現段階の考えを述べている(変な臭いは、私は感じない)。おそらく松戸氏の本も小野寺直氏の本も読んでいるであろう。真理を知った上で、どのように現実に対処していくべきか。そこまで著者は考えていると思う。