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足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想

価格: ¥1,890
カテゴリ: 単行本(ソフトカバー)
ブランド: 朝日出版社
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空っぽの箱の中に何があるのか ★★★★★
レイモン・クノーの『文体練習』のような装丁を、という著者の希望が見事に叶えられた挑発的な本書を手に取ると、「本物」や「リアル」をめぐる著者の思考の過程に(それを謎を追う動きのスローモーションと称しているが)飲みこまれ、わかっていたはずのものがわからなくなる奇妙な時間を読者は体験することになる。
本物とは何か、本物とは何かという問いは何か、その問いは本物か。
プロレスや寓話を下敷きに著者が導く本物をめぐる思考のスローモーションは、一見平易で、すぐ目の前に本物が見えているようで、それでもいつまでたっても辿りつかず、道に迷ううちに本物そのものを見失うような、迂遠でしかし本物の不可能性を示すからこそ本物であると思わせるような、ほんとうの議論に違いない。
入不二哲学入門の決定版 ★★★★★
 哲学者入不二基義氏による初のエッセイ集である。既刊の序文を中心に構成された第一部、時間論的な哲学エッセイを集めた第二部、時事ネタを含む日常的エッセイの第三部、そして付録のプロレス論、どこから読んでも入不二哲学の魅力に触れることができる。
 同氏の既刊書はよくもあしくも本格的な哲学書がほとんどだったため、その分かりやすさとは裏腹に一般読者にとっては不当に馴染みの薄い哲学者であったが、本人をして「こういう本をずっと書きたいと思ってきた」と言わしめた本書は、読者を選ばぬ読みやすさと哲学ファンをも納得させる深さを兼ね備えた好著となった。
 個人的には第二部の書き下ろし三篇が最も刺激的であり眩暈すら覚えた。普段何気なく見過ごしている常識が入不二製の哲学メスによって解剖されてゆくさまは芸術的ですらあり、少なくとも表現力においては3N(中島義道・永井均・野矢茂樹)を凌いでいるのではないかと思われる。付録のプロレス論は再録であるが、独創性はもちろんのこと後に開花する入不二哲学の萌芽が見られ興味深い。
 松田行正氏の手による装丁も地味でありながら挑発的であり、「無さ」にこだわる入不二哲学を具現しているかのようである。入不二哲学のみならず哲学そのものの入口へと誘ってくれる本書は、一人でも多くの人に読んでもらいたい一冊である。
入不二ワールドの魅力の源泉が分かる ★★★★★
著者は「入不二ワールド」と呼ばれる形而上学的思考を粘り強く展開してきた哲学者。本書は、著者が「ずっと書きたいと思ってきたエッセイ集」(p229)で、テツガクテツガクした議論から、若き日の恋愛譚(?)、著者が長いこと講師をしていた予備校という独自空間の活写、著者が強いこだわりと愛着をもつプロレスの快楽など、話題は多岐にわたる。だが全体を通読すると、そこには一貫して何とも言えない”解放的な気流”が流れているのを感じる。たとえば「<さとり>と<おおぼけ>は紙一重」の節では、大乗仏典『維摩経』の第八章「入不二法門品」における、菩薩たちの面白おかしいおしゃべりが紹介される。「不二に入る」(=悟りを得る)とは、「二」(=二項対立)から自由になることである。だがそれは、人間が言葉を使って思考する以上、とても難しい。なぜなら、「P」という規定は、「Pでない」という否定とつねに二項対立してしまうからだ。哲学でいう「排中律」から自由になろうと、菩薩たちはしゃべり尽くした挙句、問いを立てた張本人である維摩に答を尋ねるが、維摩は沈黙して答えない。だが、維摩のこの「沈黙」を、言語の無力を示す深遠な真理開示と早合点してはいけない。「くせ者」で「あまのじゃくな人」、仮病で寝込んでいるだけの維摩は、ただぼけーっとして、菩薩たちの議論を聞いていなかったので答えられなかったのではないか? このような「おおぼけ」と「さとり」は原理的に区別できないのだ。また、「<とりあえず>ということ」という節では、哲学では無視されてきた「とりあえず性」こそが、そこから「永遠」と「たえざる時の推移」という二つの頽落形態が生まれる原初的なものであることが示される。二項対立からの自由を意味する「不二に入る」が著者の苗字であるように、本書すべての話題が「不二に入る」ネタであるのが素晴らしい。