その中で、一つのエッセイを紹介したい。
「ヒヤシンス
思いの込められた手紙が届く。
窓際の水栽培のヒヤシンスが、淡い紫の花を咲かせたらしい。
多分僕が見えるのなら、
彼女は写真を選択しただろう。
見えない僕に伝えるために、
彼女の目はカメラのレンズよりも繊細な描写をおこなった。
僕は見えている頃、
本当に心を動かされる景色は、
写真には残さない主義だった。
勤めて、瞼に焼き付けることを試みた。
そして、どうしても思い出せなくなったら、また足を運べばいいと考えていた。
記憶は色あせない。
記憶は朽ちていく。
朽ちていくから美しい。
美しいものには色がある。
僕の心の中で、ヒヤシンスは見事な花を咲かせた。」
この詩を、解説させていただきたい。
「本当に心を動かされる景色」を「写真には残さない主義だった」の理由は、おそらく万が一失明した時の自分を想像しての事だろう。
網膜色素変性症は、難病でわかっている事が少ない。医師が患者に伝えるメジャーな言葉は、「まだ治療法がなく、失明する人もいる。」という事だ。
「瞼に焼き付けることを試みた」に、著者の前向きな生き方が伺える。
失明する自分も視野にいれて、大切に、景色やきれいなものを見てきたのだろう。失明しても見れる「アルバム」のために。
それは、とても大切な事のような気がした。
いつまでも人間は「今のまま」の状態は続かないのは確かだ。
それを教えてくれたような気がする。
「朽ちていくから美しい」のは、多分、なかなか思えない事ではないだろうか。見る事にこだわっていたら、多分、そう思えない気がする。
「僕の心の中で、ヒヤシンスは見事な花を咲かせた。」の言葉は、本当に既定概念を超えた言葉であると思う。
手紙をくれた(きっと女性)人の事が伝わって欲しいという想いと、著者の過去のアルバムが、うまく溶け込んだんだろうと思う。
ここまで書いて気づいたが、この本は、「人」との関わりで、「見える」ものを記した本だと思う。
なので、私達ももしかしたら、傍にあるものなのかもしれません。
「目」を使って見てるからこそ、見えないことがある気がすると感じた本であった。