インターネットデパート - 取扱い商品数1000万点以上の通販サイト。送料無料商品も多数あります。

死産される日本語・日本人―「日本」の歴史‐地政的配置

価格: ¥2,940
カテゴリ: ハードカバー
ブランド: 新曜社
Amazon.co.jpで確認
左翼学問の愚書  ★☆☆☆☆
学問的に新しいことは何もない。ただ回りくどい言いまわしで、近代日本を批判しているだけである。90年代に流行したもので、くだらないとしか言いようがない。これくらいなら金静美の『水平運動史研究』のほうがよほどましで、この著者は言葉づかいだけは激しいが中身は結構微温的なのである。
クレバー ★★★★☆
どの章も同じことを繰り返し糾弾している。ある対象を批判する時は、その批判を述べる自らの立ち位置にこそを向けよ、と。主な話題は「日本」「日本語」「国家」「民族」という問題。著者のスタンスは簡単に言えば、「馬鹿という方が馬鹿」ということになるのだろうが、こういう糾弾のスタイルというのは告発としては有効だろうが、それ以上のものなのかどうなのか。非常なインテリジェンスを備えた著者ゆえ、読んで得るところは多いのだが、何となく姿を見せずに的確に相手を射抜くスナイパーのような鋭さと、それゆえの狡猾さのようなものを感じてしまった。
『死産される日本語・日本人』(酒井直樹著・新曜社)を読む ★★★★☆
「学問の政治性への関心」が、ここでの中心的関心なのだという。

たとえそれが客観を標榜する学問であっても、人間思考の構築体である限りそのイデオロギー性を回避する術はない、ということは自明のことだ。

ここには、国民共同体としての日本の近代を種々の層(近代の捉え方、国民共同体の表象、戦後憲法の位置、偏在するものとしての国家、天皇制と近代、現代保守主義)で捉えようとする論文が並んでいる。「死産される日本語・日本人」は、これら論考のひとつとして置かれた中心的論文である。

日本語・日本人という幻想が、如何にして生み出され、あたかも実体であるかのように信じられるようになった現状を論じている。

日本語・日本人を議論するとき、変化成長する有機的実体を想定することが前提になってしまっていることに、疑念を抱かねばなるまい。日本語・日本人という名辞が指し示していると信じられている存在と、この名辞との関係について、もう一度問い直すことから始める必要があろう。
「日本語」なんてなかった、そして今も? ★★★★★
興味深く読んでいる。議論が厳密なために読むのに時間がかかり、3日で1章ぐらいしか進まない。しかしそれだけの知的感動を与えてくれるので、ただ速読多読のみを威張っている人たちに読ませてあげたい。

筆者は主に、フーコーから影響を受けていると思われる。しかし、このようなフーコーだの構造主義だのというステレオタイプはこの筆者の最も嫌うところでありうるので、こんな言説は避けた方が賢明だ。暗黙に前提とされるもの、「実定性」をこそ問い直さなければならない。

「日本語」の問題は柄谷行人の『日本近代文学の起源』と併せて読むと分かりやすいかもしれない。要約すれば、「日本語」は近代の発明物であるということだ。たかだか200年程度の近代にわれわれの思考は囚われている。されど近代だ。

まさに近代の産物、ナショナリズムに関する素晴らしい考察が随所に見られる。「死の共同体」と言い放った部分は圧巻。とにかく、ゆっくり読むことをお勧めする。