教科書にしたいくらい
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教科書にしたい、などと言うと何か古い価値観に縛られているなどと言われそうですが・・・。それでも倫理、というものに関してそれが単に固定化して恣意性のある要素だ、と一面的に捉えるのではなく、なぜそのような倫理が発展してきたのかということを人間存在というものから根本的に問い直していきます。家の概念や共同体社会など、現代では軽視されがちなものを存在の根底から導き出す。そうして人間というものが個と全の間で展開されるあらゆる可能態であるということを痛感させられました。しかし何も著者がそうして発達した社会が固定化し、抑圧的になることを当然の事としているのではありません。本来はそうした抑圧と考えられがちなものが、自分たちだけでなく他者、生活環境の中から導き出された生き方なのだ、ということです。
私などが内容を論じられるものではないのですが、一般人として読んで受けた印象です。今の社会に欠けているものを学ばせてもらった気がします。
自国の思想に自信をもてない思想人
★★★★★
この書評は前の書評氏への反論として書く。和辻と三木を「概念が盗みに等しい」と批評するが、和辻の独創性は日本思想史において非常に稀有な存在。三木の「パスカル論」は内容はパスカルの思想であるが、その思想を弁証法を用いて、ここまで高めたのは三木の功績。だれもこれほどまでにパスカルの思想を鮮明に浮き彫りにしたものはいない。「日本の人文系のインチキ臭さ」というが、あなたは日本人ではないのか。
社会学者、大沢真幸『戦後思想空間』(1988年)の西田、田辺、和辻の理解は、戦後50年経ても、その解釈の貧弱さは、まさに「絶対他の分野では許されない甘さ」をいまだに踏襲している。その大沢でさえ、「ある意味で、二人(西田と和辻)は同じようなことを考えていた」といい、「和辻は西田と違い、初めから、社会的ものから発想している」と言っている。
「時代的に、新カント派、シェーラー、フッサールの諸説に詳しく」とあるが、今では忘却されてしまっている1930年年代の日本における西洋摂取の成果を踏まえている。そうでなければ、和辻にしても、これらの思想に言及することはできない。「ハイデガーの影響が随所に色濃い」とされるが、「空間性に即せざる時間性はいまだ真に時問性ではない。ハイデッガーがそこに留まったのは彼のDaseinがあくまでも個人に過ぎなかったからである、彼は人問存在をただ人の存在として捕えた」と「風土」の序言にある。
最後に、「社会」とは「公共性」のことであって、「優れて新しい概念」ではない。
この書物は4分冊として出版されているので、反論があるならば、そこにお願いしたい。
本書の長所は
★★★★☆
1)「個人」と「社会」という古くて新しい問題を、日本の伝統文化に寄り添いながら西欧の論理で描ききろうとした壮大な試み。「公共性」という当時としては新しい観念を見出し論述する辺りは出色の独創性を感じる。「公共性」を「社会」のことだというような「延縄業法」的な理解力と素養では本書の理解は到底覚束ない。「公共性」とは世論とイコールではないが、世論も含まれる。要するに、公の媒体を通じて共有されているような観念や、知識のことだ。ここに、「個」と「社会」を繋ぐ可能性を見出したことはみごと。後にこの批評に奇妙な反論(論旨不明)を載せている人物には、この項だけを申し伝えれば良いかと思う。
2)全体の構成はヘーゲルに習うが、新カント派、ベルグソン、ハイデガーらの影響が随所に見える。タームや観念の括りがそれを示している。さらに人類学、心理学へも文献を広く渉猟、それを総合的に纏め上げる力は、音に聞こえた秀才そのものだが、その水準は高く、今日のハーバーマスに比肩すると言いたい。種々の理論を組み合わせて語る構成力には見習う点も多いと思う。
日本の思想系の欧米の発想横取りスタンスには、はなはだ不愉快な思いをしてきた。モンテスキューに恥ずかしいような「風土」は地理の教科書かと言いたいぐらいの発想のお粗末さ、パスカル論は現存在分析を盗み取りして「存在と時間」の発表前に出版し、世界で初、などという愚かな評価まで出る始末。三木は、「パスカル論」を独逸語にしてハイデッガーに読ませる勇気はあったか。ハイデガーの前で俺のほうが現存在分析は早かった、と言って見る勇気はあったか、こう問えばすべてが明らかだろう。こんなアンフェアーを庇う事が日本の文化を守ることだと思っている人がいるのは残念。哲学と商品を同列に論じる気は無いが、商品だったらこんな著作の類は不法だ。とにかく、本書は、こういう類からは一線を画した名著であり、西田や廣松の著書とともに誇れる内容だと思う。