著者の熱意は、インド仏教を率いる佐々井秀麗と同じ
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<はじめに>にある、“私は仏典を、問題意識としてはフーコーと同じもの、方法としてはデリダの方法を持つものとして、アプローチできるのではないか、と考え始めた(p.3)”という文章に釘付けとなった。フーコーとデリダは「フッサール現象学」を凌駕できないと主張する竹田青嗣に同感だった私は、そのアプローチが気になって読み進んでいた。
本書を読んだ感想は、「問題意識が明確であれば、仏典の読み方がこうも違うのか!」だった。それは、タイでヴィパッサナー瞑想を修行した後、インドで不可触民解放と仏教復興を掲げて40年間戦い続ける佐々井秀麗が“平和でない時に瞑想だけしてたら、闘いに負けてしまいます”と述べる視点を彷彿とさせる。また、山口益が『大乗としての浄土』で述べた“縁起の道理(=悟りの境地)を証得した菩提樹下の仏陀釈尊は小乗の独覚のような段階に過ぎず、四七の三昧(説法すべきかどうかの迷い)及び梵天の勧請を承けて説法を決意してから、縁起の道理を説き始めた鹿野園の仏陀釈尊こそ大乗の如来のような段階である。つまり小乗とか大乗というのは、「独覚⇒勧請⇒如来」と推移した釈尊成道の一ヶ月のある局面を捉えたに過ぎない。”という視点と一致する。
著者が、<7 ブッダ「悟り」を捨てる>で述べる「苦」の真義(p.181)、<8 瞑想の罠>で述べる邪な瞑想(p.188)などは傾聴に値する。
ブッダの思想とは何なのか?
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2500年も昔のインドに生きたブッダの教えが、本当に現代にも通用するのか? という疑問を、原始経典と現代思想を織り交ぜながら解き明かしていく。
ペテン師たちが神秘のベールの向こうに隠してしまったブッダの本当の姿、ブッダが言いたかったことは、そういうことだったのかと感心させられる一書。
坊さんが儀礼(葬式や回忌法要)にだけ出てくるような仏教は、ブッダが否定した宗教じゃないか。まったく坊主丸儲けとはこのことである。
ブッダの対話からその人物像に迫る作品です。
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みごとです。経典を通して釈尊の対話、行動がどういったものであったかがよくわかりました。この釈尊の弟子たちが残している経典は、釈尊がいかに積極的に民衆の中に入っていったか、時には国家的な部分にも関わっていたかを示しています。瞑想だけしてればよいというのは、引用されている原始仏教の経典から見ても間違いであることは明らかでしょう。
すべての民衆を救っていくという目的には、やはり政治にも関わっていかざるを得ないというのは、国々の王に対して戦争回避を勧めているところからも、その心が伝わってきます。また実際に、回避できていることもすごいことです。
ほかにも殺人犯罪者(アングリーマーラ)さえも改心させているなど、彼がどれだけ真剣に、1人1人の人間、またその社会に対して考えていたかがよくわかります。かなりお勧めです。
第三文明社からほかにも出ている「仏教入門(上下)」とあわせて読むとその釈尊から大乗までの流れがわかるようになります。こちらは、仏法の大きな流れを経典や仏教研究を踏まえて全体的流れに焦点を当てています。「ブッダは歩むブッダは語る」がミクロ正法時代仏法入門とすれば、こちらは、マクロ正法時代仏法入門といえるでしょう。
感動しました!!
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悶々とした夜、寝る前に読むとグッスリ眠れます。
生きる勇気がわきました!お勧めの1冊です!
感動しました!!
★★★☆☆
悶々とした夜、寝る前に読むとグッスリ眠れます。
生きる勇気がわきました!お勧めの1冊です!