本書は、そんなマフマルバフのスピーチ、リポート、公開書簡の3つの柱から構成される。タイトルからは、その内容がセンセーショナルで、ナショナリズム、宗教観を前面に出した作品のような印象を受けるが、実際には、アフガニスタンの近現代史、人々の暮らし、産業の不毛、宗教、女性の抑圧などについて、幅広く、冷静な筆致と客観的な視点で描き出している。
いずれも政治的メッセージを排している点で、本書と著者の映画作品は共通している。『カンダハール』の高い評価は、ありのままのアフガニスタンを伝えた、というところにあるし、本書もまた、読者にありのままのアフガニスタンを伝えようとしている。淡々とした筆致の裏には、2本の映画製作にあたって1万ページにおよぶ本や文書の研究、撮影で実際にアフガニスタンを見聞した体験も生かされている。
また、本文中には注釈が付き、該当用語は初出するその見開きページ端にまとめられ、いちいち巻末にページを送る必要もない。さらに、柱となる3章以外に地図、アフガニスタン略年表、著者略歴、映画『カンダハール』解説といった豊富な資料が付記されている。丁寧な翻訳および編集作業がうかがえると同時に、いわば「アフガニスタン入門書」としての価値も高い。
9・11テロ事件によって、アメリカ主導のグローバリゼーションが疑問視されはじめているなかで、著者はあくまで同じ地域に住む隣人の視点から、アフガニスタンの窮状を訴える。マスコミ報道からは得られない、立体的なアフガニスタン理解ができる。(佐藤修平)
一時間ほどで読みきりました。心が洗われました。善悪二元論の見方が懸念されている現在に反して,彼の誠実なメッセージが率直に届く。
私的な感想ですが,日本では,アフガニスタンについて全く報道されなくなった今だからこそ,伝わってくるものがあります。彼に…この現実を誠実に認識し,やはり悲観的にならざるをえないが,どんな人間でも理解しよう。そして,将来を肯定しよう…そんな印象を受けました。当たり前のように生きている私(たち)が,どんなに難しくても,必死に考え,悲劇の当事者に対して何をすべきなのかを考えなければならないと強く思います。
「私はヘラートの町の外れで二万人もの男女や子供が飢えで
死んでいくのを目の当たりにした。彼らはもはや歩く気力も
なく、皆が地面に倒れて、ただ死を待つだけだった。この大量
死の原因は、アフガニスタンの最近の旱魃である。同じ日に、
国連の難民高等弁務官である日本人女性もこの二万人のもとを
訪れ、世界は彼らの為に手を尽くすと約束した。三ヵ月後、
この女性がアフガニスタンで餓死に直面している人々の数は
百万人だと言うのを私は聞いた。
ついに私は、仏像は、誰が破壊したのでもないという結論に
達した。仏像は、恥辱の為に崩れ落ちたのだ。アフガニスタン
の虐げられた人々に対し世界がここまで無関心であることを
恥じ、自らの偉大さなど何の足しにもならないと知って砕けた
のだ。」
「バーミヤンの仏像の破壊は、世界中の同情を集めた。しかし
何故、国連難民高等弁務官の緒方氏を除いて、このひどい飢饉
によって死んだ百万人のアフガン人に対しては、誰も悲しみを
表明しないのか。」
「現代の世界では人間よりも仏像の方が大事にされるという
のか。」
「仏陀の清貧と安寧の哲学は、パンを求める国民の前に恥じ
入り、力尽き、砕け散った。仏陀は世界に、この全ての貧困、
無知、抑圧、大量死を伝える為に崩れ落ちた。しかし、怠惰な
人類は、仏像が崩れたということしか耳に入らない。」
しかしここで言う「静かな」というのは、主張が無いということを意味しているのではない。彼の主張はときに辛辣な批判に溢れている。そしてなすすべも無い現実を目の前にした時の無力感と悲しみは、この上なく熱く深い。
しかしマフマルバフはこの熱い感情論でもってアフガニスタンを語っているのではない。アナリストのような冷静さでもって、経済的その他指標・数字でもって淡々と自らの隣国について語っていくのだ。ヒステリックな議論は彼の望むところではなく、金塊り声を上げることによる逆効果を恐れているように見える。それは冷静な、静かな、そしておそらくは正しい視点なのであろう。
この本を手に取ったのは映画を観て、これまでと違う切り口からアフガニスタンを知ることができると思ったからだ。しかし同映画の監督でもある著者が著す国は、映画でデフォルメされたものでもなくルポで強調される現状の悲惨さでもなく、アフガニスタンの社会とそれを取り巻く国際情勢、そして毎日毎日くり返される日常である。それらが、緻密な下調べと出来る限りの偏見を取り除いた語り口で実に淡々と語られている。
何をもってしても禁じ得なかったアフガニスタンの実像は「恥辱の余り崩れ落ちた」仏像が象徴的に物語ってくれる。