青山二郎とは何者か
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「人が見たら蛙に化れ」
(陶器は力強く沈黙しているが、更に姿をくらまし、空虚に徹し、自然と化せ)とは
青山二郎の至言である。
中国の古陶磁については、先ず支那に入門すべし。見れば解る。それだけの物だ(様式があり説明的ということ)但し、世界第一級品は説明を超える。
朝鮮物第一流のものは焼物。100万中に一つなり。ひたすら、唯己一人のものなり。李朝陶器の美というものはない。個々の物が美しいのである。
優れた画家が絵を描いた事はない。それは描くものではなく、それを観た者の発見であり、創作である。
日本の陶磁は自然に化る。
(人間と器物が等価。過不足がない成熟が真贋の尺度。完全無欠を求めない。観念を嫌う)
一個の茶碗は茶人その人である。
しかし、利休以後の茶人は「感じ」を好むようになった。
(和臭。朝鮮の茶碗、支那の書にはない)
「感じ」から物が見えてくる(見えた)にならなければならない。
陶器は初期のものが良く、段々と思惑がつけ込んでそのものの生彩が欠けていく。二番手趣味の陶器が始まる。
芸術家は感情を離れなければならぬ。
一度、茶碗を愛したらその茶碗は自分の血肉の中に溶ける。
写真を撮る。被写体とは形のない形、色の見えない色を発見する、創作する機縁である。
書。形を得た言葉、眼に見える言葉。手に抱ける言葉が茶碗。
こうみてくると、青山二郎はコレクターではない。
物となって見、物となって聞く(西田幾多郎)物我一如に到達していたのではないだろうか。
よくできた人間
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青山の立派なところは、本物を見る目が骨董だけに終らなかったことだ。
青山にはそれがモノであれ人であれ、中身が見えた。
見ようとしたのではなく、見えてしまっていたのであろう。
青山は小林秀雄や白州正子と違い、死んでも腐らなかった。
それは、最後までアマチュアを通したことだからでもあるが、なにより、常に人と同じ土俵に立っていたからだろう。
頭から目を切り離してものを見る。
小林は青山のことを「我々は秀才だが、あいつだけは天才だ」と言ったらしいが、私は、青山を天才というより、よくできた人間だと感じた。
なかなかこのような人間には、なれるものではない。
お買い得
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講談社学芸文庫などにいくつか文集があるが、全文集を、それも文庫で出そうという、ちくまの企画には感激する。
著者はもちろん文学畑の人間ではないが、「昭和最高の目利き」が何を考えてきたのか、何を美しいと見ていたのか、通読することで、ぼんやり見えてくるものが必ずあります。