王子は、訪日して数十年たっても日本語も碌に話せない、知り合いも作らない、学校に行っても怠慢で退学になる、など気合の入らないこと甚だしい。しかし数少ない知己の犬養が首相着任の折には新生ベトナムの旗を持って訪ねたのだから、目的を忘れたわけではないらしい。棚ボタを待っていた?
受動的で、超のん気で、気力に欠ける。この性格的特徴は、清国のラストエンペラー溥儀にも共通するように思う。
しかし革命軍にしても、錦の御旗である王子様を実務で使う予定などないだろうに、参謀もつけずに異国の地に放置したとは解せない。
紙数が多い割に情報量が乏しい、同じ内容を言葉を換えて繰り返す、事実の量よりもそれを埋める空想の量の方が多い、オレ様な語りっぷりが鼻につく、など文章は嫌いだが、この本をきっかけに近代ベトナム史に興味を持てたのは◎。
しかし、何かが欠けている。それは、クォン・デが政治家としては無能だったこと、そして「王族」だというだけで民族解放の先頭に立つ時代は、二十世紀始めにはもう終わり始めていたのだという認識が、この著者にしては、欠けているのだ。私たちは、「王族」の哀れな末路に共感することを、自らに禁じるべきではないのか?
ここにクォン・デという日本に憧れ、日本に期待し、日本に翻弄される貴公子が登場する。
クォン・デの生涯こそが維新後の日本が歩んだ道を反照している。
日本で忘れ去られただけでなく、祖国ベトナムでも救国の英雄から外国勢力への依存が強すぎる姿勢への批判を受け、次第に忘れ去られた存在になりつつあるクォン・デ。南北分断からアメリカとの戦争といった外部勢力に翻弄されるベトナムの軌跡と軌を一にする。
そこには大国の都合に翻弄される小国の悲哀がある。
ドキュメンタリー作家として有名な著者らしく、本書もドキュメンタリーの要素が濃厚である。
「問われるべきは事実があったかどうかではなく、僕が提示した世界観なのだ」
著者の思いはここに尽きるだろう。
著者にとってはアジア近代史の空白を埋めるとか、日本とベトナムのよりよい関係のためなどといった動機は重要でない。著者の提示する世界観、他の映像作品や活字作品に通底する世界観を是非今後も追求していってもらいたい。