映画として編集する時には、時間的な制約がある以上、どうしても切らなくてはいけないところがある。基本的には映画で見られる場面について、撮影時の著者の「迷い」というか「逡巡」がじんじん伝わってくる内容だ。映像だけではどうしても伝えきれなかったものがあるからこそ、著者は(森さんも安岡さんも)この本を書かずにはいられなかったのだろう。
荒木さんが、住民たちから猛烈な抗議によって移転先の建物に入れず、立ち去らざるを得なくなった出来事は全国ニュースでも流れ、いまもまだ記憶に新しい。あの場面をテレビで見た森達也さんの言葉が、胸をきゅーっと打つ。
あのシーンを経て、さらに彼らを撮り続けた森さんの「姿勢」について、私たちはいまいちど立ち止まって考えてみる必要があると思う。
とにかく、映画と一緒にみることをオススメする。映画を観て、本書を読むうちに、日本で、同じようなことが繰り返されていることに気がつくと思うからだ。
カトリックの修道院でも,従順を誓い,上長の命には従うという。宗教的修練の過程で,自我を滅却するための手段として,指導者への従順は,一つの手段なのかもしれない。
しかし,グル(指導者)の命令であれば,それが明らかに悪であっても従うというのは,勘違いも甚だしい。
このとき,信者は自我を捨てたつもりで人格を捨ててしまったのだ。それこそ,求める当のものであったのに。
本作品は興味深いものではあったが,作者にはあるべき評価の基準が欠けているように思う。インタビューの過程では,問いただすべきところはもっとつっこんで問いただしてほしかった。
例を挙げよう。横浜のオウム本拠地に抗議行動を仕掛ける右翼。近づいてみると何やらそのスタンスに「思慮深さ」を感じる。森監督が聞いてみると、何とその右翼は森監督による週刊誌の記事(オウム信者と地域住民の共生関係に関しての)を読み、オウムサイドの真意を尋ねる必要があると言う。
マスメディアに取り上げられることの稀な光景。しかし、私たち「市民」の鏡像がフィルムには余すところなく定着されている。
森監督作品は何よりも見られるべきものである。鑑賞後に手に取るもよし、本書をきっかけに映画館に足を運ぶのもなおよし。