〈科学〉殺人事件
★★★★☆
本書は、「『科学』の成立時点および『科学史・科学哲学』という学問の形成過程にまで筆を遡らせ、
そこからクーンに至る道のりをたどり直す」、そして、「クーンの主張を科学史・科学哲学とは無縁の
一般読者に理解していただくために、クーンを『〈科学〉殺人事件』の嫌疑をかけられた被告に見立てる
という劇的プロットを叙述全体を貫く筋として設定することを試みた」一冊である。
この「科学」の殺人者をめぐる刑事法廷の寓意がうまく作用しているかどうか、に関しては
あえて論評を避けるが、この手の本としては難解な語彙・ジャーゴンの使用もかなり抑えられており、
そしてまた、クーンへの無批判な礼賛に堕することもなく、氏のパラダイム論を非常に巧みに正確に
解説した書であることには違いない。
ポパーとの対比などはベタではあるが極めて鮮やかなものだし、カントとの類似の指摘については
個人的にはまさに目から鱗が落ちるような感を得たところ。
そして同時に、科学哲学などの入門書としても有用。
「クーンがもたらしたのは、既成の科学像の破壊であると同時に新たな科学像の創造であった」との
結論はお見事、クーンのテクストともども、広く読まれて然るべき一冊。
トマス・クーンを理解するには最高の一冊なんじゃないっすかね。
★★★★★
考えてみると、新科学哲学派全体を論じた著作はあっても、トマス・クーンひとりの思想とその有為転変を徹底的に掘り下げて紹介した本って案外他に見当たらないかもしれない。クーンの著作とそれが引き起こした論争の全体像を把握する最良の一冊。
クーンの科学革命論のもつ学史的意義が、ガリレオ研究のコイレや17世紀科学革命概念の提唱者バターフィールド、論理実証主義のライヘンバッハや反証主義のポパーといった科学史・科学哲学の先立つ伝統との関係から明らかにされ、また「クーン以後」の科学社会学への影響までをきちんと論じてくれるおかげで、クーンを決定的な分水嶺とする科学論史の大きな流れも見えてきます。
しかし、野家氏が科学社会学に詳しくないことと、クーン自身が科学社会学の「ストロングプログラム」を評価していないこと(本書ではその点が特に強調されて紹介されている)により、本書を読むひとは誰もが科学社会学の現代の動向を敬遠してしまう恐れがあるかもしれないなあ。実際、かく言う僕自身、哲学科の学部生だった頃、野家氏に限らず村上陽一郎氏の著作などの情報から科学社会学のストロングプログラムを「なにやら馬鹿げたもの」という風にしか思わず、直接読む労をとりませんでしたからね。
そう考えると、現在のように自分が科学社会学の勉強をするようになることは、社会理論の勉強を志して社会学の大学院に行ったことにより社会学的な物の見方を心髄まで叩き込まれることがなかったならば、つまり最初から科学論の研究を志していたのだとしたら、かなり可能性が低かったのかもしれない・・・。
パラダイム論
★★★★☆
「現代思想の冒険者たち」シリーズの文庫化。
科学哲学者、トマス・クーンの思想の教科書的解説。
この本を読むと、「パラダイム」という概念がどのような誤解にさらされてきたか、そして現在一般に使われている「パラダイム」という語の用いられ方が概念の拡大解釈にもとづいていることが分かる。
クーンにとってパラダイムとは「ある特定の学問領域において典型例=モデルとなる研究のあり方」であって、いわゆる「ものの見方、とらえ方一般」というようなものではない。
ある分野においてパラダイムの変更=科学革命が起こると、その後また新たなパラダイムの変更が起こらない限りは、そのモデルに則ったルーチンワーク的な通常研究が続くことになる。
そしてクーンは、科学の本質をそのような通常研究の累積にあると見ていた。
華々しいパラダイムの変更はむしろ科学における「異常事態」でしかなく、通常研究が積み重ねられていく「地味」な期間の方が科学にとっては本来的なあり方だというのである。
結果クーンは、旧来の科学史家からは「科学の真理性を科学者の集団心理に還元したアナーキスト」とみなされ、クーン以降に登場してくるラディカルな相対主義者からは「旧来の科学真理主義になおも固執する保守主義者」とみなされてしまった。
確かに、クーンの主張はややもすると中途半端な印象を与える。
彼によれば、異なるパラダイム同士は「どちらがより真実に近似しているか」といった共通の尺度を持ちえず、それどころか両者には通約不可能性=コミュニケーション不全が生じてしまうという。つまりパラダイム・シフトはなんら「進歩」ではなく、せいぜい「価値観の転換」にしかなりえない。
そうしながらも一方では、例えばファイヤーベントの「知のアナーキズム」のような見解、つまり「何らかのパラダイムに無前提に依拠せざるをえない(なにしろパラダイム自体の正当性は当の科学が扱いうる範疇ではないのだから)科学は結局のところ「神話」の一種にすぎず、「知」はつねに相対的なものでしかない」という立場は厳しく批判している。
科学実証主義のような極端な真理実在主義は採らないけれど、知そのものの否定にもなりかねない放埒な相対主義もまた退けるのである。
だが、やはり私にはファイヤーベントのようなラディカリズムに魅力を感じてしまう。クーンの思想には「健全なバランス感覚」というものが備わっているが、およそ「哲学」に必要なのはそうした穏健さではないだろう。クーンの常識人ぶりはどこかカントに似ている。偉大ではあるが、物足りないのだ。