本邦におけるビルドゥングスロマンの傑作、あるいはナルシスの悪意
★★★★★
帯に「『ハイスクール1968』続編、書き下ろし」と謳われているとおり、本書に語られているのは著者が浪人生活を経て72年に東大文3に入学してから、79年に韓国の大学に日本語教師として赴任するまでの時期である。しかも、「その後のわたしの来歴については、もはや語ることもないだろう。それは現在のわたしにまで直結している物語であり、わたしは現在進行形の事件として、その逐一を文章に仕立てあげてきたからである」(p25)とあるところからすれば、『ハイスクール1968』と本書、さらには『先生とわたし』は、「作家・四方田犬彦」の誕生までを跡付ける典型的な教養小説を構成すると言える(ただし、p331に「一九八〇年代の慌しい日々については、またいつの日にか回想を書き記すことがあるかもしれない」ともある)。
四方田の自伝的な作品については、しばしば事実の誤認・誇張・歪曲が指摘されているが(それをフーコー的な「書くことの自由」と結びつけて好意的に解釈することもできる)、その意味でもこれらを「小説」として受け止めるべきだろう。また実際、それだけの文学的強度と企みが仕込まれた作品だと思う。入試を数日後に控え、あさま山荘事件のTV中継を眺め続けた記憶から始まるプロローグが、確かに本書の沈鬱なトーンを予告していると言えるだろう(「担当編集者」氏の「だからこそ、すごーく面白いんですね、これが」といういかにも軽薄な売り句には困りものだが……)。
終章末尾、韓国に飛び立つ飛行機の窓から見下ろした富士山の火口の描写は、黒々とした哄笑を誘う。傑作。