一人暮らしなんて「贅沢」は、夢のまた夢だった・・・
★★★★★
今の若者が、何故、貧困を嘆くのか?という事がよく理解できた。
昭和の時代、若者が、親元を離れて、一人暮らしなんて「贅沢」は、夢のまた夢だったもんなぁ。
昔は、みんな、親からウザい事言われながらも、経済的に独立できないから、親と暮らしていたっけ。あ、一応、上場企業の正社員でもね。
エリートなんて言われた若手社員でも、男性は寮暮らし、相部屋が基本。
キッチン、風呂トイレも共同、それが標準。
3畳に2段ベッド、相部屋、刑務所の独居房より狭かったかな。
女性は、親元から通勤するのが条件で採用。
風紀上の問題もあったんだと思うけど。
嫁にいき遅れて30歳前後になっても、親元から独立したくても経済的には無理だった、あ、一応、一流会社のOLで人も羨む年収でも。それでも、一人暮らしするとなると、できなくはないが「何とか荘」といった玄関が共同の非文化住宅みたいな古い物件にしか住めなかったと思う。それで家賃に収入の大半が取られて、貯金なしだし、やりたい事する経済的余裕もなくなる。
だから、一人暮らしは、実際上、無理だったかなぁ。生きていくので精一杯の暮らししかできなかったから。
経済成長のあった頃でも、若者の暮らしなんて、そんなもんでしたよ。
だから、今、若者が貧困っていうけど、そりゃ、一人暮らしをするなら、悲惨でしょうよ。
今も昔も、若者の給与体系は、貯金なんてロクにできないようになってるわけで、一人暮らしをするという前提に無理があるのではなかろうか?
一人暮らしをして、さらに、やりたい事もやるなんて、普通は無理。
そんな理想を持っている以上は、貧困意識からは抜け出せないように思った。
昔は、全員が貧困だったが、平成に入って、貧困から抜け出せる人たちが出てきた、ということなんだろうか。
それが癪に障るから、昭和のように、全員が「一人暮らしなどできないような貧困」「やりたい事ができないような貧困」に落ちれば気が済む、そういうことなのか?
若者の閉塞感とか、貧困の訳を知りたくて読んでみたが、参考になった。
特に、133頁の「自分とたいして違わないような普通の人がたまたま郵便局の職員というだけで甘い汁を吸っていることが、多くの人にとっては許せないんですね」というわけで、郵政民営化がなされた、というのには妙に納得してしまった。
国民は郵政民営化の意味するところがわからないまま、郵政選挙では小泉圧勝で郵政民営化がなされた。それが、不思議だったのだ。そういうわけだとしたら、理解できる。
郵政民営化は国益には反するかもしれないが、隣で甘い汁を吸っている人から甘い汁を奪うことはできるわけで、それで気が済むというなら、それもありだろう。
でも、そういう思想で、時代は進歩するのだろうか?
平成に入って、一部でも貧困から抜け出せる人がでてきたとしたら、それは良い事ではないのだろうか?
・・・ちょっと暗くなるような読後感でした。
プレカリアン・ラリアット
★★★★☆
雨宮氏の著書(正確には萱野氏との対談)を初めて読んでみたが、実に興味深い。
プレカリアート(生活も職も心も不安定さに晒される人々)問題は長い間精神疾患で苦しんでいる自分も当事者だな、と身につまされる。
将来、社会福祉学を志すであろう立場からしても、この問題はどんどん自分にとって深刻なものになることが想像に難くない。
20代の死因の一位は「自殺」なのだと。
「自己責任」の社会の空気に殺されるならば、こういった運動(メーデーなど)に積極的に参加して怒りをぶちまけたほうがよっぽどいい。
それにしても、パンクミュージックやファッションはデモ運動には打ってつけだと思うんだけど、You-tubeなどで見かけるデモ運動の動画ではなかなか見かけられないのが少々寂しい。
糸井重里さんも以前、「現代の若者はもっとパンクムーブメントを見習ったほういい」(こういった表現じゃなかったかも)
と書いていたけど、おれもそう思うなぁ。
随分病んだ時代なのだなと
★★★★☆
私自身長く生きづらさを感じており本書にあるような鬱病的な思考もしていたが、私は自分の憂鬱、生きづらさはどこまでも自分の問題であり自分に起因するものでしかないと思っていた。単なる自分の性格ではとすら思っていた。今も半分くらいはそうかなと思っているが、これ程までに自分が個人的に一人で独立して抱えていると思っていた苦悩や不満がそのまま公的に出版されている本に片っ端から書かれており、しかも同じような悩みが沢山の人に抱えられているように書かれている事は衝撃であった。安易に自分の失敗や憂鬱を世の中のせいにするのは好きではないがここまで同時的に独立した個々人が同じような生きづらさを感じるというのは、個々人が個々人の問題で鬱になっているというよりはやはりある程度まで社会自体、時代自体が病んでいるのではないか。本書の記述は少なからずそう感じさせる。
貧困かつKYな人間の精神的社会的末路は大体共通しているという事かもしれない。本書では空気を読む、コミュニケーション力、これらの能力の強い要求による承認の困難化、これが精神的な生きづらさの原因になってるのではという事が言われる。分かりやすく単純とすら言える話だが的を射ても見える。安易に全てをこれで説明するのもどうかと思うし、一概に言う事も出来ないだろうが私には正直かなりの程度多くの問題が、例えばイジメや引き篭もり、ニートの問題もこの空気を読めなければ駄目、コミュ力がなければ駄目、浮いてれば駄目、変なら駄目、という価値観の蔓延に強く関連して起きているのではとすら思えてしまう。
本書でキーワードになっているのが「承認」というものであるようだがこれは非常によく分かる。秋葉原の通り魔事件は様々な観点から様々な原因に結び付けられているが当の犯人は自分が愛されない、愛す相手もいないと繰り返し嘆いていた。それ以外の理由もあるだろうが、やはり彼にとってこの事は大きかったのではと思う。そしてそれは明らかに承認の不在の問題である。だが私は未だ承認とか他人から愛されたいという問題は個々人の問題だと思う気持ちもある。それとも人々には承認とか愛が必要だからといって、財産所得を分配するがごとく国家を通じて承認や愛も分配するのだろうか。承認を自力で得られない人が生きづらさを感じ、それが自殺や犯罪など深刻で無視できない問題に繋がっていく。これにどう対策するのか。これは難しい問題だなと思う。
自分たちがファシスト思想を鼓舞していることに気づいていないのが問題
★☆☆☆☆
二人して、同世代の若者の境遇とその困難を盛んに心配しているが、実際のところ、二人の思考の枠組が何よりも心配に値する。彼らが言っていることは、無力化されて共同体に取り込まれ、歯車として生きることこそが幸福であり、そこから「強制的に自立させられる」ことが不幸だ、ということに尽きる。
極端な言い方をすれば、このような思想枠組はファシズムと同根である。困った若者がファシズムや国粋主義になびくことを心配してみせているが、そうすることで、彼等自身がファシストでも国粋主義者でないことを、自分に向かって言い聞かせているに過ぎないように見える。
萱野氏、雨宮氏がもてはやされるのは、社会が非常に危険な水域に入っていることを、如実に示しているように感じる。彼等自身に、同じ光文社新書の拙著『ハラスメントは連鎖する』と、そこに引用した文献をお読みいただき、ご自分の抱える無意識に潜んだ不安の原因に向き合い、乗り越えることを熱望する。
「生きづらさ」はどこからくるのか
★★★★☆
「生きづらさ」の原因を経済面と精神面から明らかにしてゆこうというのが本書の
テーマである。
雨宮氏と萱野氏の対談形式になっている。
場の空気を読み、常に相手の感情や行動に先回りし、互いに軋轢を生まないよう
振舞うことの要請が強い現代のコミュニケーション。
そのコミュニケーションたるや高度であり、それ対応していくほか他者から承認を
得ることができない。
「核心に触れるような話はしない、それもできるだけ楽しい話しかしない」
「その場のノリを最優先にしなければならない圧力」
の記述は今のコミュニケーションの特徴をうまく表しているように思えた。
バブル崩壊以降、多くの企業では年功序列制度の中でこれまで若手社員が担って
いた単純業務をいつでも代替可能な派遣社員でまかなった。
それが人件費抑制、正社員として雇用することにより生じる義務の軽減へつながり、
労働市場の流動化に一役買ったのは事実だ。
しかし、それは多くの者から経済的安定や所属することにより得られる承認を奪う
ばかりでなく、その多くの者に「お前なんかいつでも取替えがきく」という間接的
なネガティブメッセージを与えることとなる。
それらが相まって、今、多くの者が「生きづらさ」を感じている。
アメリカでは失敗したということは挑戦した証であり、それを高く評価する文化が
根付いているのだという。
すべてをアメリカに合わせろとはいわない。しかし、今日本に必要なのは一度つま
ずいた者にもチャンスを与える文化なのではないだろうか?
本書読み、そう思わずにいられなかった。